没後・影響
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/12/11 17:05 UTC 版)
1915年2月4日に第四子シャルル=ピエール・ペギー(フランス語版)が生まれた。彼は後に気候学者となり、レンヌ大学教授、フランス国立科学研究センター研究主任などを歴任した。 1915年7月14日にクロワ・ド・ゲール勲章(武勲章、Croix de guerre)、1916年にレジオンドヌール勲章を授与された。 『ジャン・コスト』の著者ラヴェルニュは、1921年に「ペギーの死は私には恐ろしいショックだった。その時から、私の身体の一部分が彼と共に消え、私の生命はもはや依然と同じ味わいと目標を失ったように私には思われた」と書いている。 1942年に作家のオーギュスト・マルタン(フランス語版)、カミーユ=テオドール・コニアム(Camille-Théodore Quoniam)、ジャン=ピエール・デュボワ=デュメ(Jean-Pierre Dubois-Dumée)によってシャルル・ペギー友の会(L'Amitié Charles Péguy)が結成され、「シャルル・ペギー公式ウェブサイト」を運営するほか、会報として学術情報雑誌(季刊誌)を刊行している。名誉委員会には、アラン・フィンケルクロート、歴史学者のジャック・ジュイヤール(フランス語版)、ジャン=ピエール・リウー(フランス語版)、哲学者のポール・ティボー、欧州議会議員を務めた民主運動党のフランソワ・バイルーのほか、ユダヤ教のラビ、カトリックの神父、プロテスタントの牧師などが参加している。 1916年から1955年にかけて『ペギー全集』全20巻がガリマール社から刊行された。その後、プレイヤード叢書として1975年から1992年にかけて詩作品1巻と散文作品全3巻が刊行され、これを機に、ペギーへの関心が再燃し、「非妥協、一徹さ」、「不服従」などを意味する「ペギー主義(péguysme)」という言葉が使われるようになった。ペギー再評価の口火を切ったのはアラン・フィンケルクロートであり、彼は、ドレフュス事件と言えばジョレス、クレマンソー、ゾラの名前が挙がるが、彼にとって最も重要なのは、「啓蒙主義と反啓蒙主義という二律背反に対する不屈の闘いを挑んだ」シャルル・ペギーであり、さらに、現代を理解するためには彼の作品を読み直し、その40年の生涯を再検討する必要があると主張、「現代的(contemporain)ではない(時代遅れ)」、または「現代(contemporain)」に「不満な(mécontent)」という意味で、『メコントンポラン (Le Mécontemporain) - 現代世界の読み手シャルル・ペギー』と題するペギー論を、プレイヤード叢書が完結した1992年に発表した。 1931年没後出版の『クリオ - 歴史と異教的魂の対話』は、随筆家・イタリア文学者・翻訳家の須賀敦子の「思想の核となった作家・詩人・思想家による著作」の叢書「須賀敦子の本棚」全9巻(池澤夏樹監修)の第6巻として2019年に新訳・初完訳が刊行された。 ブリュノ・デュモン監督はペギーの『ジャンヌ・ダルク』(1897年)と『ジャンヌ・ダルクの愛の神秘』(1919年)に着想を得て、2017年にミュージカル『ジャネット、ジャンヌ・ダルクの幼年期』を制作し、2020年には、没後1952年に刊行された『この朝まだきに(Par ce demi-clair matin)』をもとに映画『ある朝まだきに(Par un demi-clair matin)』を制作した。
※この「没後・影響」の解説は、「シャルル・ペギー」の解説の一部です。
「没後・影響」を含む「シャルル・ペギー」の記事については、「シャルル・ペギー」の概要を参照ください。
- 没後・影響のページへのリンク