没後の名誉回復
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/08 07:06 UTC 版)
「ペドロ・アルヴァレス・カブラル」の記事における「没後の名誉回復」の解説
ポルトガルによるブラジルへの恒久的入植は、1532年、マルティン・アフォンソ・デ・ソウザ(英語版)によるサン・ヴィセンテ(英語版)の建設から始まった。その後数年かけてポルトガル勢力は西へと開拓を進めていき、先住民のみならずスペインからも土地を奪取していった。1750年頃にはブラジルはほぼ現在の国境線と同じ広さに拡大しており、広大なポルトガル海上帝国の中でも重要な地域と見なされるようになっていた。1822年、ポルトガル王ジョアン6世の後継者がポルトガルよりの独立を勝ち取り、ブラジルの初代皇帝ペドロ1世として即位した。 カブラルのブラジル発見という功績は——彼は母国内に眠っているにも関わらず——探検遠征の後300年程の間にすっかり忘れ去られてしまっていた。風向きが変わったのは1840年代のことである。ペドロ1世の後を継いで即位したペドロ2世は、ブラジル歴史地理院(英語版)を通じ、カブラルの生涯やその探検についての調査・出版を支援した。この背景には、数多の民族が暮らすブラジルに共通のアイデンティティと国家史を広めることで、自分たちはイスパノアメリカにあってポルトガル語を話す特別な(英語版)国家の民なのだという一枚岩のナショナリズムを作り出したい、という皇帝の遠大な計画があった。カブラルへの再注目の動きは、1839年、ブラジルの歴史学者フランシスコ・アドルフォ・デ・ファルンハーゲン(英語版)(後のポルト・セグーロ子爵)によってカブラルの墓所が再発見されたことに端を発する。完全に放置されていたカブラルの墓は、ブラジルとポルトガルの危機的な政治抗争に引きずり出されるようにして再び陽の目を浴びたのである。当時ポルトガルを治めていたのは、ペドロ2世の姉にあたるマリア2世であった。 1871年、ブラジル皇帝はヨーロッパ歴訪の道中でカブラルの墓所を訪ね、科学的調査のための発掘を提案した。1882年、最初の調査が実施された。1896年の第2次調査では、土と遺骨の入った骨壺の持ち出しが許可された。最終的に遺体はポルトガルに残されたが、骨壺は1903年12月30日にブラジルのリオデジャネイロ旧大聖堂へ移送された。こうしてカブラルはブラジルの英雄となったのである。しかしながらポルトガル本国にあっては、カブラルの存在は相変わらず政敵ヴァスコ・ダ・ガマの影に隠れたままであった。歴史学者William Greenleeはカブラルの遠征の重要性について「地理史上の重要事件というだけでなく、経済の面でも歴史的影響を与えた」と論じ、「後世への影響がこれ以上大きい」探検航海事例は少ないにもかかわらず「同時代でこれほど称えられなかった事例も少ない」と評している。また歴史学者James McClymontは「もっと偉大であったり幸運だった人物がいるとはいえ、ポルトガルの探検・征服史においてカブラルの存在を無視することは出来ない」と論じ、カブラルは「ブラジルを最初に発見した人物ではないかもしれないが、ブラジル史を語るとき最初に必ず出てくる存在ではあろう」と結論づけている。 こういった再評価の流れを受け、ユーロ移行前の1998年にポルトガルで発行された最後の1000エスクード紙幣ではカブラルの肖像が使用されていた。また2000年にはブラジル到達500周年を記念して、ブラジルで10レアルのポリマー紙幣が発行された。
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