没後の出来事
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『貧しき信徒』は死去4か月後に野菊社から刊行された。加藤武雄の自費による出版であった。 とみは池袋に転居し、当初は洋裁の内職、その後白木屋の大塚分店(約10年間)などで働きながら遺児2人を育てたが、1937年(昭和12年)に桃子が、1940年(昭和15年)には陽二が相次いで夭逝する。二人とも死因は重吉と同じ結核であった。遺されたとみ(登美子)は、かつて重吉が入院した南湖院に事務員として勤めたのち、1947年に歌人の吉野秀雄と再婚する。とみは1944年から、4人の子を抱えて妻に先立たれた吉野の家事を手伝っていた。再婚に至るまでの間、とみは重吉の遺稿類をバスケットに入れて大切に保存していた。この間、高村光太郎・三ツ村繁蔵・草野心平らの助力により、1942年に山雅房から『八木重吉詩集』が限定500部で刊行された。この詩集は既刊詩集掲載作も含め、すべて重吉の草稿を元に編集されている点が特徴である(ただし『秋の瞳』収録作は草稿が当時とみの手許になかったため、ほとんど含まれていない)。吉野秀雄はとみとの結婚によって重吉とその作品を知り、その普及顕彰に取り組むようになる。 創元社の取締役だった評論家の小林秀雄が重吉の詩に接したことをきっかけに、1948年に同社の創元選書から詩集が刊行され(創元文庫からは1951年)、広く名声を得た。この出版には吉野が尽力した。 1950年には新教出版社から、重吉の著作として『神を呼ぼう』が出版された。 1958年、吉野秀雄の家族全員が協力して『定本 八木重吉詩集』が彌生書房より刊行される。直後に『秋の瞳』などの草稿が発見されたことで、『<新資料 八木重吉詩稿>花と空と祈り』が翌年に同じく彌生書房より刊行されている。 1982年には筑摩書房から『八木重吉全集(全3巻)』(2000年に増補改訂版全4巻)が、1988年には同社のちくま文庫から『八木重吉全詩集(全2巻)』が出版された。 1984年には、故郷の町田市相原町に八木重吉記念館が開設された。この記念館の開館を契機に、命日の10月26日に対して茶の花忌の呼称が付けられた。 とみは1999年(平成11年)2月12日に死去した。吉野秀雄は生前にとみの没後は分骨して重吉の墓所にも埋葬してやりたいと短歌に詠み、それに従って現在は重吉および二人の遺児の墓碑の横にとみの墓碑が建立されている。
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