没後の出来事とは? わかりやすく解説

没後の出来事

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/13 11:44 UTC 版)

八木重吉」の記事における「没後の出来事」の解説

貧しき信徒』は死去4か月後に野菊社から刊行された。加藤武雄自費による出版であった。 とみは池袋転居し当初洋裁内職その後白木屋大塚分店(約10年間)などで働きながら遺児2人育てたが、1937年(昭和12年)に桃子が、1940年(昭和15年)には陽二が相次いで夭逝する二人とも死因重吉と同じ結核であった。遺されたとみ(登美子)は、かつて重吉入院した南湖院事務員として勤めたのち、1947年歌人吉野秀雄再婚する。とみは1944年から、4人の子抱えて妻に先立たれ吉野家事手伝っていた。再婚に至るまでの間、とみは重吉遺稿類をバスケット入れて大切に保存していた。この間高村光太郎三ツ村繁蔵草野心平らの助力により、1942年山雅房から『八木重吉詩集』が限定500部で刊行された。この詩集既刊詩集掲載作も含め、すべて重吉草稿元に編集されている点が特徴である(ただし『秋の瞳収録作草稿当時とみの手許になかったため、ほとんど含まれていない)。吉野秀雄はとみとの結婚によって重吉その作品知り、その普及顕彰取り組むうになる創元社取締役だった評論家小林秀雄重吉の詩に接したことをきっかけに、1948年同社の創元選書から詩集刊行され(創元文庫からは1951年)、広く名声得た。この出版には吉野尽力した1950年には新教出版社から、重吉著作として『神を呼ぼう』が出版された。 1958年吉野秀雄家族全員協力して定本 八木重吉詩集』が彌生書房より刊行される直後に『秋の瞳』などの草稿発見されたことで、『<新資料 八木重吉詩稿>花と空と祈り』が翌年同じく彌生書房より刊行されている。 1982年には筑摩書房から『八木重吉全集(全3巻)』(2000年増補改訂版4巻)が、1988年には同社ちくま文庫から『八木重吉全詩集(全2巻)』が出版された。 1984年には、故郷町田市相原町八木重吉記念館が開設された。この記念館の開館契機に、命日10月26日に対して茶の花忌の呼称付けられた。 とみは1999年(平成11年)2月12日死去した吉野秀雄生前にとみの没後分骨して重吉墓所にも埋葬しやりたい短歌詠み、それに従って現在は重吉および二人遺児墓碑の横にとみの墓碑建立されている。

※この「没後の出来事」の解説は、「八木重吉」の解説の一部です。
「没後の出来事」を含む「八木重吉」の記事については、「八木重吉」の概要を参照ください。

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