没後の周辺
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/11 15:03 UTC 版)
金玉均や朝鮮の文明開化による自立を支援してきた福沢諭吉は1885年(明治18年)2月23日と2月26日の論説に、「朝鮮独立党の処刑(前・後)」という論説では、李氏朝鮮が凌遅刑という残忍な方法で甲申政変後に金玉均ら開化派の三親等の一族処刑して遺体を晒し者にした報を聞いて、朝鮮の体制を激しく非難し、金玉均ら朝鮮開化派の死を涙している。 人間娑婆世界の地獄は朝鮮の京城に出現したり。我輩は此國を目して野蠻と評せんよりも、寧ろ妖魔惡鬼の地獄國と云わんと欲する者なり。而して此地獄國の當局者は誰ぞと尋るに、事大黨政府の官吏にして、其後見の實力を有する者は即ち支那人なり。我輩は千里遠隔の隣國に居り、固より其國事に縁なき者なれども、此事情を聞いて唯悲哀に堪えず、今この文を草するにも淚落ちて原稿紙を潤おすを覺えざるなり — 『時事新報』1885年(明治18年)2月26日、 朝鮮独立党の処刑(後編) 著名な脱亜論もこの出来事の約3週間後に書かれたため、平山洋は「脱亜論」の内容が「朝鮮独立党の処刑(後編)」の要約になっているとして脱亜論への影響があると分析している。 日本滞在中は頭山満に紹介された本因坊秀栄と囲碁を通じての深い交流があり、本因坊秀栄は北海道・小笠原諸島にも慰問に訪れていた。また死の直前に友人に贈った碁盤(浮木の盤)は1976年に日本棋院に寄贈されたが、没後100年を経た1995年に韓国棋院に贈呈された。 暗殺された日、親しかった頭山満の夢枕に立ったという。 暗殺者の洪鐘宇は逮捕後に朝鮮政府の交渉により釈放された。帰国後に高宗から激賞され、守旧派の一員として要職に就き、開化派を弾圧した。だが甲午農民戦争後に日本が圧力を強めたことから1903年に失脚して済州島に流され、1913年に貧困のうちに没した。 金玉均の墓がある青山の外人墓地では月額590円の管理料金がかかるが、これを5年以上滞納していたために撤去通告が2004年に東京都から出された。通告に驚いた韓国大使館は滞納中の管理料を代納し、移転の危機を免れた。
※この「没後の周辺」の解説は、「金玉均」の解説の一部です。
「没後の周辺」を含む「金玉均」の記事については、「金玉均」の概要を参照ください。
- 没後の周辺のページへのリンク