没後の回想
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/11 09:20 UTC 版)
当時満2歳だった姉の照宮成子内親王は、満13歳の1939年(昭和14年)9月10日の日記で、この日が「久ちゃんの誕生日」だと振り返り、生後半年を迎えたばかりの末妹清宮貴子内親王の成長に期待する内容を記している。 昭和天皇は、久宮の薨去後半世紀以上経過した1980年(昭和55年)8月、那須御用邸での記者会見で、皇太子明仁親王・同妃美智子(いずれも当時)が、内廷皇族として初めて手元で子女を養育したとされることに対し、 「皇居に移ってからも子供と一緒に暮らしました。そのひとつの例として、久宮が危篤の折、私がちょうど風邪をひいて熱を出していました。私は病を押して久宮を見舞ったことが出来たということがあります。こういうことができたということは、屋根の下で一緒に暮らしたからだと私は思います」 と振り返り、自身も手元で子女を養育したことを説明した。
※この「没後の回想」の解説は、「久宮祐子内親王」の解説の一部です。
「没後の回想」を含む「久宮祐子内親王」の記事については、「久宮祐子内親王」の概要を参照ください。
- 没後の回想のページへのリンク