没後の事情
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557年(太平2年)1月、侍中・使持節・驃騎将軍・南徐州刺史の位を追贈され、武康県公に追封された。同年(永定元年)10月、陳が建国されると、侍中・車騎大将軍・司徒の位を追贈され、南康郡王に追封された。諡は忠壮といった。陳霸先は休先について「この弟がもし生きていれば、河洛を平定するのは取るに足らないことであるのに」と述べた。
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没後の事情
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/01/07 08:16 UTC 版)
557年(太平2年)、使持節・侍中・都督南兗州諸軍事・南兗州刺史の位を追贈され、長城県公に追封された。諡は昭烈といった。南朝陳が建てられると、さらに驃騎大将軍・太傅・揚州牧の位を贈られ、始興郡王に改封された。子の陳頊は南朝梁の承聖末年に西魏により関中に連行されていたが、陳霸先は陳頊に始興王の封を嗣がせて、道談の祭祀を奉じさせることとしていた。559年(永定3年)6月に陳霸先が死去し、陳蒨(文帝)が即位したが、陳頊はまだ北周から帰国していなかったため、同年10月に陳蒨は陳頊を安成王とし、陳蒨の次男の陳伯茂を始興王に封じて、道談の祭祀を奉じさせた。
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