水売りから軍人へ
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山東省兗州府鄒県嶧山鎮(中国語版)苗荘村の出身。父は靳長生、母は邱氏。幼くして父を亡くし、兄の靳雲鵬とともに水を売ったり運送業を行って生計を立てていたが、14歳の時、尚書の息子に水をはねて罪に問われそうになったため、兄の靳雲鵬と母とともに夜逃げして済南へたどり着き、染布で生計を立てる。1898年、17歳のとき袁世凱が天津小站で編成した新建陸軍の当砲兵となる。2年後の1900年、保成速成参謀学堂に入学。卒業後、江北・清江浦の陸軍第13混成協参謀官、蘇州混成協参謀官を歴任した。辛亥革命時、北洋第1軍(総統官:馮国璋→段祺瑞、総参謀:徐樹錚)参謀として武漢三鎮鎮圧に参加。中華民国成立後、保定の北洋第2路備補軍混成団団長、1914年(民国3年)8月、陸軍第8混成旅への改編に伴い第2団長となり河南省の信陽に移駐。 護国戦争(第三革命)後は安徽派に属する。1919年(民国8年)に第8混成旅旅長に昇進、引き続き鄭州に駐屯。また、5個営を信陽に駐屯させた。同地には趙雲竜率いる第3旅隷下の第6団の一部が駐屯していたが、同年8月ごろから給料の支給が停滞していた。そんな中、1920年(民国9年)春、靳雲鶚の部隊のみ兄の靳雲鵬を介して河南督軍趙倜より5万元の資金援助を受け取っている事が判明したため、4月4日、趙雲竜の部隊で暴動が起こる(信陽兵変)。靳雲鶚は隷下団長の王允忠を鎮圧に向かわせたがうまく行かず、6日には靳雲鶚も1個営を率いて鎮圧にあたった(11日で20名とも)。この兵変で80棟~350棟が放火や略奪の被害を受け、民間人80人以上が殺害された。被害総額は200万元に上った。 7月の安直戦争で安徽派が敗北すると、直隷派に転じ、呉佩孚配下となる。1921年(民国10年)8月の湘鄂戦争では蕭耀南の第25師とともに漢口に進出。前敵総指揮に任ぜられ、8月19日、趙恒惕と汀泗橋鎮で激戦を展開し、22日に占領するも、将兵の半数を失う。疲弊した靳雲鶚は鶏公山(中国語版)でしばし療養を行う。同地は公共租界の外国人に人気の避暑地で、多く別荘が建てられていた。靳雲鶚はそれらに反感を持ち、山頂に「頤廬」と呼ばれる別荘を建てた。 1922年(民国11年)4月に第1次奉直戦争が勃発すると、視察に赴いた第11師師長の馮玉祥とその隷下の第22旅旅長の張之江・第24師第47旅旅長の王為蔚とともに鄭州で趙倜の動向に目を光らせていたが、5月5日夜、趙倜の弟の趙傑率いる80個営が鄭州を包囲。馮玉祥が増援を連れてくるまでの間、張之江が前敵総指揮となり防御に徹した。しかし、鄭州に事実上いた部隊は王為蔚が1個団、張之江が2個営、靳雲鶚に至っては補充された新兵や見習軍官ばかりの1個営で戦力とはなり得ず、城内の後方防衛に徹した。間もなく劉郁芬・宋哲元の2団、胡景翼の陝西陸軍第1師、蕭耀南の2個旅団(王都慶の第21混成旅、藩守蒸の第1旅)が到着し、鄭州は解囲された。10日、王都慶の第21混成旅と共同して信陽に向かい、両河口を占領、翌11日には長台関、明港を占領した。 同年6月には魯山県で匪賊の張慶(老洋人)が2万人を扇動し暴動(魯山起義(中国語版))が起こる。張慶らは一旦安徽省に撤収したが、11月頭に再び河南省に戻ってきたため、靳雲鶚は呉佩孚より河南全省剿匪総司令に命ぜられ、16日、駐馬店で剿匪司令部を置いて鎮圧にあたった。 1923年(民国12年)、鄭州の第14師師長に昇進し、将軍府驍威将軍に任命された。鄭州警備司令を兼任、同年の二・七大スト(中国語版)を呉佩孚の命で武力鎮圧した。1924年(民国13年)9月の第2次奉直戦争に参戦し、山海関と九門口の間の角山寺・二郎廟などに布陣したが、直隷派敗北とともに下野する。
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