毛筆存廃問題
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/12 09:11 UTC 版)
「漢字廃止論」も参照 そもそもの発端は明治末期のこと、鉛筆が普及し大正初期には学校教育に取り入れられると近代化の中で毛筆の存在意義が問われるようになった。広島においては1908年(明治41年)広島県師土井訓導が紙面で発表、大正時代には賛否が争われた。これがピークとなったのが1919年(大正8年)中橋徳五郎文相が唱えた「毛筆廃止論」である。同年7月28日付東京日日新聞で中橋文相は「毛筆は二十年来の遺物である。現今の清社会に於て我々が毛筆をなめている様では、日本の文化は進歩するものではない」と毛筆廃止論を展開し、これに同調するものもでて全国規模で激しく論議された。これに対し筆の産地であった熊野町は中橋文相に陳情書を出し、この中で「将来我国民ノ精神二及ホス影響、勘カラサルモノアル」と国粋主義的な面で訴えている。この騒動が収まるのは昭和初期のことで、それまで単なる筆記用具に過ぎなかった毛筆が、習字の持つ精神性・芸術性が評価されて学校教育の場に残ったのである。 1941年(昭和16年)国民学校令制定、それまでの学校での書道は単なる書き方に過ぎなかったものが“芸能科習字”として一教科に格上げされたため、毛筆需要は増加した。同年末太平洋戦争が勃発すると男性の職人が徴兵されたためカバーするように女性の職人によって作られていたが、戦争が進むにつれ原料・職人不足によりほぼ作られなくなった。 そして終戦後、今度はGHQ主導による学制改革で1947年(昭和22年)学習指導要領で書道は必修教科から外された。熊野にとっては当時の基幹産業の主力であった学童用毛筆の需要見通しがつかない状況になったのである。この中で他業種への転職を進めたり、残った職人たちは技術的にも材料的にも共通点の多い画筆や化粧筆作りを模索していった。戦前には東アジアを中心に輸出されていたものも途切れたため、新たに海外輸出計画が練られたのもこの時期である。 一方、書道の必修教科復活に向けて豊道春海を中心に書道家・書道教育者が熱心に活動した。熊野では町を挙げて復活運動を行い政府に陳情し、のちに政界も巻き込んで大きな運動となった。これが実り、1951年(昭和26年)小学校指導要領で小学4年生以上での書道が任意ではあるが復活、1958年(昭和33年)学習指導要領で小学3年生以上必修となり、学校での習字教育は復活したのである。 1954年(昭和29年)には熊野町商工会調べによると国内生産額で9割に達し熊野町全戸数の8割が毛筆業に従事していたという。別のソースには同年の国内生産高70%、画筆のみ60%に達したという。1958年(昭和33年)山陽新聞は生産高90%、年間10億円と報じている。
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