毛筆王国へ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/12 09:11 UTC 版)
1872年(明治5年)の史料によると、上方からの職人の指導によって生産は盛況、熊野に筆問屋ができ、農業あるいは行商と兼業していたものは生業として筆作りに励んでいた。ただし職工は不況によって簡単に転職したりあるいは復帰したりしていた。流通も広島と防長石州、つまり山口・島根の西部程度に限られていた。 そこへ同1872年学制制定、小学校で筆を使うようになったため需要が増えることになる。これに1877年(明治10年)第1回内国勧業博覧会で入賞したことにより熊野筆の名が知られるようになる。教育系の法整備が進むにつれ生産本数は桁違いに伸び、販路も1895年(明治28年)には全国に拡大したと考えられている。この明治時代に新たな混毛のやり方“盆まぜ”を開発、他産地に先駆けて大量生産を可能にした。村の基幹産業となったのはこの明治中頃で、村を挙げて生産に取り組んだ。 日清戦争に絡んで生産は拡大した。戦地に赴いて熊野筆を行商していたものもいたという。筆製造によって得られた経済力を背景に1918年(大正7年)10月1日熊野町として町制施行している。 ただ急速に拡大していった中で職人の腕の絶対数が追いつかなくなり質の低下を招いた。当時「熊野筆は安かろう然し悪かろう」と揶揄されたという。そのため明治中頃には筆司数人で、例えば七筆会・毛筆奨励会・工親会といったグループを作り品質の追求にも取り組んでいる。これらが事業拡大と近代化のなかで集まり、後に1926年(大正15年)熊野商工会設立であったり、1935年(昭和10年)熊野商業組合(現在の熊野筆事業協同組合)設立に至っている。 昭和初期になると軍部への納入は増えていった。またこの頃熊野では道路網が整備されトラックによる定期輸送が可能となると、それら消費地への大量運搬ができるようになり、さらに山陽本線あるいは呉線の駅までの到達時間が短くなり、販売網は拡大した。こうした販売網の拡大により、毛筆に加えて万年筆や刷毛製造を起こすところもでて、毛筆製造に隠れて細々と行われていたという。この刷毛製造が後に画筆・化粧筆製造に繋がるのである。 1936年(昭和11年)7千万本を記録している。これが現在協同組合公式発表による毛筆のみの生産量ピークである。翌1937年(昭和12年)日中戦争が勃発すると原毛の輸入が停止されたことにより生産は落ち込んでいった。その中で軍部は良質な日本産の筆つまり熊野筆を中国での宣撫工作の一つとして用いていたという。 1937年(昭和12年)県立広島商業高校の調査によると、生産量は国内の8割に達しており、熊野町民の95%が製筆関係の仕事に従事し、町財政の4割が製筆によるものであった。原材料は国内物と輸入物に頼り、原料毛は大阪・神戸・京都の他に満州・中国・モンゴル・アメリカから、竹軸は岡山・兵庫・島根・静岡などから取り寄せていた。出来た毛筆は台湾・樺太・朝鮮・満州・中国にも輸出し、欧米も視野に入れていた。ただし、大量に流通していたにも関わらず熊野筆というブランド名は浸透しておらず無銘筆で多く流通していたという。1939年(昭和14年)には国内生産量の9割に達し、国定教科書の地理に熊野町が筆の産地であると記載するよう陳情していたという。 「姉も妹も筆つくる」の唄のように女性が多く働いた。近隣の村々では娘がこき使われるのを心配して「熊野に嫁に行かすな」と言われていたという。逆に働き者の母親を見て育った熊野の娘は働き者であったとして「嫁にもらうなら熊野の嫁を」と言われていたという。
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