歴史と衰退
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/15 16:34 UTC 版)
琉球競馬は琉球王朝の士族の楽しみとして、約300年又は約500年前に始まった。琉球競馬の最古の記録はウィリアム・アダムス(三浦按針)が書いた『琉球諸島航海日誌』で、「1615年、陰暦3月3日、首里は祭日で闘鶏と競馬が催される」(南島史学9号)と記されている。 沖縄各地に150超-200カ所弱の馬場跡が確認されている。馬場には琉球王家直轄の「真地(マージ)」と呼ばれる2か所(平良、識名)の競馬場を頂点に、村管轄、集落管轄の3管轄があり、真地での開催は沖縄じゅうの関心を呼んだ。 「平良真地(ていーらまーじ)」(または「平良馬場」、「大名馬場」)は、首里城から北へ約1.5キロの距離で、那覇市首里大名(おおな)町(旧・西原間切平良)にあり、琉球王朝(第二尚氏)時代の1695年、尚貞王の代に造られた。 「闢馬場干平良邑地 首里無有戯馬場人皆行至各慮習騎馬之法至干是年ト地平良邑西始闢馬場人民恆以騎馬俗名曰平良真地」(訳=馬場を平良に開く。首里に競馬場はなく、人々はみな各地に行って騎馬の法を習う。この年に至って、平良の西に初めて馬場を開き、馬に乗った。俗に名付けて平良真地という) — 球陽八巻 尚貞王二十七年(『美ら島物語』より) 平良真地(全長二町五十五(約278メートル)幅十間(約18メートル)で西から東に向けて競技する)は王府の直轄馬場となり、競技があると沖縄各地から馬が集まり、大会の前には出場馬が崎山馬場から平良真地へパレードし、競技は国王も見物し、馬場中央の「ウサンシチ」(御桟敷:おさじき)に座った。 江戸から明治となり、琉球処分で職を失い地方に進出(帰農)した屋取(ヤードゥイ:士族の開墾地のこと。)の士族により、琉球競馬は沖縄各地に伝播し、農民も交えて隆盛を迎えた。小型の在来馬を用いた。 琉球競馬は、太平洋戦争末期の沖縄戦の前まで沖縄県内各地で盛んに行われ、人々が熱狂したが、1943年(昭和18年)、那覇市での開催を最後に途絶えたと報じられている。第一次世界大戦以降の軍馬の需要拡大で在来馬の去勢法が施行され、小型の在来種の大型改良の強行(大型馬移入による在来馬の駆逐・在来馬の去勢)が進んだほか、深刻な経済不況のいわゆる「ソテツ地獄」、戦争への備え、島民の価値観の変化などが途絶えた原因といわれる。 各地の集落には馬場の跡がみられ、戦後の整備で公園やゴルフ場、幹線道路になったり、空軍の滑走路の一部となっている。 琉球大学名誉教授の新城明久(しんじょうあきひさ)(育種学)は、ンマハラシーを「(沖縄において)過去最大の娯楽だった」とした上で「(琉球競馬の)王府の狙いは士族・平民が共に祭りを楽しみ、馬の生産に励み、優秀な馬を選抜・育成することだった」と、その歴史的意義を生き物文化誌学会で述べている。
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