正成との合流・湊川の合戦
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「新田義貞」の記事における「正成との合流・湊川の合戦」の解説
5月18日、進撃してきた足利軍と新田軍はまず福山で合戦に及ぶ。この合戦で新田軍は敗れ、義貞、脇屋義助、大井田氏経らは攝津まで退却する。さらに進撃を続ける尊氏を迎撃する為、義貞は楠木正成と共に迎撃することとなった。 24日、義貞は正成軍と合流したのち会見し、正成から朝廷における議論の経過を説明された。『太平記』によるとその夜、義貞と正成は酌み交わし、それぞれの胸の内を吐露した。義貞は先の戦で尊氏相手に連敗を喫したことを恥じており、「尊氏が大軍を率いて迫ってくるこの時にさらに逃げたとあっては笑い者にされる。かくなる上は、勝敗など度外視して一戦を挑みたい」と内情を発露した。義貞は鎌倉を攻め落とすという大功を成し遂げたため、その期待から尊氏討伐における天皇方総大将という過重な重荷を担わされた。そのため、ずっと常に世間の注目を受けていて、それを酷く気にせざるを得ず、箱根竹下での敗北、播磨攻めへの遅参、白旗城攻略の失敗などについて、義貞は強い自責の念を感じていた。この義貞の心中の吐露に対して、正成は「他者の謗りなど気にせず、退くべき時は退くべきであるのが良将の成すべきことである。北条高時を滅ぼし、尊氏を九州に追いやったのは義貞の武徳によるものだから、誰も侮るものはいない」といい、玉砕覚悟の義貞を慰めると同時に嗜めた。しかし峰岸純夫は、周囲の悪評や恥にばかり固執して勝敗を度外視した一戦を挑もうとする義貞の頑迷さに、同情したが同時に落胆もしたのではないか、と分析している。 義貞は翌25日の湊川の合戦において輪田泊の西南にある和田岬に本陣を置いた。この陣立ては、「不思議な陣立て」であったと言われる。南から上陸してくる足利軍の軍船に背中を向けるばかりか、北に陣取った楠木正成と脇屋義助が撃破されてしまうと、東西南の三方向が海に面している和田岬は足利軍に完全に包囲され退路をふさがれてしまう形になる。義貞はあえて「背水の陣」を強いて、配下に決死の覚悟で合戦に挑むよう促したと推測される。 合戦の趨勢は、まず足利軍先鋒が経島に上陸したが脇屋軍に全員討ち取られた。これを見た足利方の細川水軍は新田軍のいない東の海岸に上陸しようと移動したため、軍勢の大半がこれを追って移動し、義貞、続いて正成も移動する。この時、手薄になった和田岬に足利軍主力が上陸したので、一歩遅れて移動していた楠木軍は湊川へ引き返す。 新田、楠木の両軍は分断されて、正成は湊川で自害した。義貞は、先頭に立って東側に上陸しようとする細川水軍こそ尊氏の本隊だと誤認していたようだが、実際には尊氏は和田岬へと上陸した最後尾の軍船に乗船していた。 尊氏の奇襲作戦は奏功したが、湊川合戦における正成、義貞の敗北の何よりの原因は、兵力の多寡にあるとされる。『太平記』においては、正成、義貞共に、「敵は勢いに乗り大軍を率いているが、一方我々の軍勢は疲弊して人数も少なくなっている」と語っている。また、義貞と正成の間に戦術面における連携の不備があったとも言われる。 ただし、湊川の合戦の「本戦」は西宮付近に上陸しようとした細川水軍を破り、生田の森を背に布陣した新田軍と、上陸した直義軍と合流した、尊氏軍との間で戦われた。『太平記』によると新田軍は一番に大舘氏明、江田行義、二番に中院貞平、大井田、里見、鳥山、三番に脇屋義助、宇都宮公綱、菊池武季、河野、土居、得能が、足利軍の足利軍の足利直義、高、上杉、吉良、石塔と激しく戦った。 義貞は「これ義貞がみづから当たるべきところなり」と、尊氏の本軍と激突した。『太平記』はこの合戦を「両虎・二龍の戦い」「新田・足利の国の争ひ今を限りとぞ見えたりける」と評し、激しさを苛烈を極めた。ただ、数の違いは明らかであり、ついに新田軍は生田の森を突破され敗れた。 義貞は敗戦濃厚となりながら、馬が無数の矢を受けて倒れてもなお太刀を振るって奮戦し、みずから殿を務めた。しかし、小山田高家が馬を失った義貞に自分の馬を与え、それに義貞を乗せて戦場から離脱させた。そして義貞は戦死を免れたが、高家は彼の身代わりとなって討死を遂げた。
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