歌舞伎を上演しない新歌舞伎座
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「新歌舞伎座 (大阪)」の記事における「歌舞伎を上演しない新歌舞伎座」の解説
この劇場は「新歌舞伎座」という名称であるにも関わらず、滅多に歌舞伎を上演しなかった(1995年2月の「二月大歌舞伎 市川猿之助特別公演」を最後に、初代劇場では1か月単位の歌舞伎公演は行われなかった)が、その原因はこの劇場の創設当時の事情が関係している。 1954年(昭和29年)、松尾國三は大谷竹次郎に請われて千土地興行の経営を引き受けたが、その同じ年から大阪歌舞伎座を本拠としていた関西歌舞伎はいわゆる「役もめ」から内部崩壊を開始し、観客動員も急速に低下、もはや「3000人劇場」の維持は無理と判断した松尾は「歌舞伎座の縮小・移転、歌舞伎座ビルの有効利用」の方向を決めた。1958年(昭和33年)4月の新国劇公演を最後に大阪歌舞伎座を閉鎖、歌舞伎座ビル内部を改造して12月に商業ビル「千日デパート」として開業した。一方、御堂筋西側の「なんば大映」跡地に建設されていた新劇場は「大阪新歌舞伎座」と命名されて10月31日に開場した(当時の収容人員は1,835名)。こけら落とし興行には尾上菊五郎劇団を迎え、関西からは市川壽海・中村富十郎(4世)のみの参加にとどめ、関西歌舞伎の本拠にはしないことを当初から明示していた。 松尾は「歌舞伎座」の名の手前、開場の翌1959年(昭和34年)のみは年6回の歌舞伎興行を行ったが、1960年(昭和35年)以降は歌舞伎・新国劇・新派を次第に取り止め、より収益の上がる新しい興行形態の開拓に積極的に乗り出した。ただ、松尾は過去に役者経験があり、個人的には歌舞伎に愛着があったことから、ダイエーに経営の主導権が移るまでは最低でも1年に1か月は歌舞伎興行を行っていた。 千土地が経営していた大阪劇場(大劇)の興行をヒントにして、人気のある映画スターや歌手を中心に据えた「座長芝居」「歌手芝居」を月替わりで公演する方式を編み出した。「歌手が座長の芝居と歌謡ショーの1か月公演」という興行形態を最初に実施したのは三波春夫。1960年3月のことだった。三波はその後20年にわたり、3月の興行を受け持った。こののち、東西の大劇場がこのような興行形態を踏襲して実施し、繁栄をみる。故に松尾國三は、興行の新しい形態の創始者であり、劇場興行界の雄であった。杉良太郎が座長公演を、1974年(昭和49年)から2005年(平成17年)にかけ50回に渡り興行したことは著名である。1995年に中村美律子初の座長公演『美律子がつづる昭和の名曲 華麗!歌の華絵巻』では9万人を動員し劇場動員記録を作った。また同年8月には、超力戦隊オーレンジャーが座長を務め、『これまでのヒーローの歴史の集大成』をテーマとした同劇場としては異例となるキャラクターショー形式の1ヶ月公演『スーパーヒーローフェスティバル』が特別興行と銘打たれて行われた。2009年(平成21年)6月に最終興行となり、杉良太郎・山田純大親子での舞台公演「拝領妻始末」と、最終3日間は五木ひろし・コロッケなどの歌謡ショーで締め括った。 2012年(平成24年)にはDOCOMOMO JAPAN選定 日本におけるモダン・ムーブメントの建築に選ばれた。
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