歌舞伎の殿堂として
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/07 01:21 UTC 版)
1925年(大正14年)1月、新築の大劇場で開場式が行われた(第3期)。舞台も約15間とさらに広がり、豪華な施設は関東大震災から復興した東京の新名所となった。1931年(昭和6年)、歌舞伎座株式会社は明治座、新富座、松竹と合併し、松竹興行株式会社になった。 第二次世界大戦で戦況が激しくなると興行も中止され、建物は1945年(昭和20年)の東京大空襲で全焼、大屋根も焼け落ちた。 戦後しばらく、歌舞伎座は廃墟の姿をさらしていたが、1949年(昭和24年)大谷竹次郎により新たに「株式会社歌舞伎座」が設立され、松竹から建物を譲り受けて復興工事を行った(土地所有及び歌舞伎興行は松竹が行う)。1950年(昭和25年)12月に竣工し、翌1951年(昭和26年)1月に歌舞伎などの演劇興行を再開した(第4期)。復興にはGHQでマッカーサーの副官であったフォービアン・バワーズの尽力が大きかった。 舞台の緞帳は、東郷青児作『女の四季』。24尺×98尺という大作で、1951年8月以降に完成したもの。 1980年代までは歌舞伎公演以外にも、萬屋錦之介特別公演、大川橋蔵特別公演、松竹歌劇団のレビュー、小林旭新春公演(1965年)、20年間に渡り恒例公演だった三波春夫座長公演、森昌子引退公演、「年忘れにっぽんの歌」(テレビ東京主催)などの催しが開催されていた。しかし1993年(平成5年)以降、松竹会長(当時)永山武臣の方針により「歌舞伎の本拠地」として原則通年で歌舞伎を興行することとなり、現在に至っている。例外は、1994年に開催された三波春夫芸能生活55周年記念リサイタル、隔年開催されている俳優祭(歌舞伎役者出演のイベント)と2005年(平成17年)に松竹110周年を記念して開催された松竹STAR GATEというオーディションなどがある。
※この「歌舞伎の殿堂として」の解説は、「歌舞伎座」の解説の一部です。
「歌舞伎の殿堂として」を含む「歌舞伎座」の記事については、「歌舞伎座」の概要を参照ください。
- 歌舞伎の殿堂としてのページへのリンク