桶狭間古戦場跡とは? わかりやすく解説

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桶狭間古戦場跡

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/01 05:38 UTC 版)

桶狭間」の記事における「桶狭間古戦場跡」の解説

桶狭間古戦場跡(おけはざまこせんじょうあと)は、名古屋市緑区桶狭間北3丁目(旧有松町大字桶狭間ヒロツボ)にある史跡である。現在は「桶狭間古戦場公園」として整備されている。 1608年慶長13年)の『尾州智多郡廻間御縄打水帳』は、この付近を「いけうら田面」と呼び、1町1反2畝9歩(約1.11ヘクタール)の深田存在していたことを示している。そして「いけうら田面」の脇に台地があり、古くから田楽奉納されてきたこの地は「田楽坪」と呼ばれたという。「いけうら田面一帯深田は洞迫間で最も初期開墾されたものと判明していることから、1608年慶長13年)から48年前の桶狭間の戦い折りにも存在していたと考えられ今川義元残党深田に足をとられて討ち取られたのはこれらの深田であったというのが、大字桶狭間側の古くからの主張である。 『尾張徇行記』(1808年文政5年))などによれば、「いけうら」はそのまま田面の字として残りヒロツボ牛毛廻間幕山あたりの広い範囲をいったようである。享保年間1716年 - 1735年)に尾張藩開田奨励策によって、「田楽坪」と呼ばれた台地含めた広範囲開墾されこの頃に「いけうら」の字名も「ひろつぼ」に変わっているが、「田楽坪」の台地にあった「ねず塚」と呼ばれる10程度の塚は、そこに立つネズ触れると熱病にかかると恐れられたことからそのまま深田中に残されている。昭和時代初期に「桶狭間古戦場」と記され標石(「文化13年1816年)建」という銘を持つ)が鞍流瀬川の底から発掘されるなどし、地元ではこの「ねず塚」を中心とした田楽坪を桶狭間の戦い主戦地として捉えるようになり、1933年昭和8年)には野孫作がこの地に「田楽庵」を建て、桶狭間史蹟保存会組織して座談会などを催すようになる。また1950年代には「駿公墓碣」と彫られ粗末な石碑発掘されたりもしている。 2010年平成22年)、桶狭間の戦いから450周年にあたることを記念して公園の改修が行われ、「近世の曙」と呼ばれる今川義元織田信長両人ブロンズ像のほか、合戦当時地形城・砦今川織田両軍進路などを配したジオラマ築造されている。 アクセスは、名古屋市営バス幕山停留所北緯35度3分22.4秒 東経13658分13.3秒 / 北緯35.056222度 東経136.970361度 / 35.056222; 136.970361)より南東徒歩約5分以内。なお、豊明市運営するひまわりバス」のバス停留所に「桶狭間古戦場公園」が存在するが、これは豊明市栄町南舘にある「桶狭間古戦場伝説地」の近在にあるもので、大字桶狭間の桶狭間古戦場跡へのアクセスにはならないので注意が必要である。 桶狭間古戦場の碑 桶狭間古戦場の碑おけはざまこせんじょうのひ)は、昭和時代初期鞍流瀬川川底から引き上げられ石碑である。正面には「桶狭間古戦場」、背面には「文化十三丙子五月建」とあり、途中で欠損しているために以降文字不明だが、製作年は1816年文化13年とみられる駿公墓碣 駿公墓碣すんこうぼけつ)は、1953年昭和28年)に「ねず塚」の中から発見された製作時期不詳石碑である。敗軍の将を弔うことをはばかった当時村人が、塚に墓石埋め密やか供養したものと考えられている。 桶狭間古戦場田楽坪の碑 桶狭間古戦場田楽坪の碑おけはざまこせんじょうでんがくつぼのひ)は、1933年昭和8年5月野孫作によって建立され石碑である。今川先鋒として布陣し戦死遂げた部将松井宗信の子孫で、大日本帝国陸軍大将であった松井石根当地訪れた際、揮毫行っている。 義元公首洗いの泉 義元公首洗いの泉よしもとこうくびあらいのいずみ)は、討ち取られ今川義元の首を洗い清めたとされる泉である。「義元水汲みの泉(よしもとみずくみのいずみ)」ともいわれる桶狭間桶狭間名付いたいわれのひとつとされるくるくる廻る伝承を持つ泉でもあり、1986年昭和61年)に区画整理が行われるまで、豊富にわき出る場所であったといわれる馬繋ぎのねずの木 馬繋ぎのねずの木うまつなぎのねずのき)は、今川義元がこの地に着陣した時に、泉のを飲むために馬の手綱をつないだといわれるネズである。触れると熱病にかかるとも言い伝えられ、「ねず塚」と共に長らく残されてきたが、1959年昭和34年)の伊勢湾台風折り1週間ほど冠水した末に枯死し、現在ではこの枯木公園内残されている。 義元公墓 義元公墓は、1934年昭和9年)に建立され今川義元墓碑である。 桶狭間古戦場の碑2012年平成24年10月)。 駿公墓碣2012年平成24年9月)。 義元公首洗いの泉2012年平成24年9月)。 馬繋ぎのねずの木2012年平成24年9月)。 義元公墓2012年平成24年9月)。

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