栄誉と評価
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「カミーユ・サン=サーンス」の記事における「栄誉と評価」の解説
サン=サーンスは1867年にレジオンドヌール勲章のシェヴァリエに叙され、1884年にオフィシエに昇級、1913年にグラン・クロワに昇級を果たした。海外の栄典には1902年のイギリスロイヤル・ヴィクトリア勲章(CVO)、ケンブリッジ大学の名誉博士号(1893年)、オックスフォード大学の名誉博士号(1907年)がある。さらに1901年にはドイツのヴィルヘルム2世からプール・ル・メリット勲章を授与された。 『タイムズ』紙は、死亡を伝える記事に次のように記している。 サン=サーンス氏の死は、フランスから国の最大級の作曲家を奪っただけではない。彼の死によって、19世紀に典型的な偉大なる音楽運動の最後の代表者が世界から失われたことになる。彼は活発な精力を保ち当代の活動に非常に近い距離を保ち続けたが故、習慣的に彼をフランス作曲界の「長老」と語るようになっていたとはいえ、彼が音楽史の中に実際に占めていた位置は忘れられがちであった。彼はブラームスよりもわずか2歳年少、そしてチャイコフスキーよりも5歳年長、ドヴォルザークより6歳年長、そしてサリヴァンよりも7歳年長なのである。彼が自国の音楽の中で得ていた立ち位置の部分部分は、自身の領域にいたそれらの巨匠たちそれぞれと、ちょうど比べることが出来るだろう。 1890年に『Mea culpa』と題した短詩を発表したサン=サーンスは、その中で堕落を知らぬ己を責め、若さによる過剰な熱意へ賛意を述べつつも、それを自分が持たなかったことを嘆いている。あるイギリスのコメンテーターは1910年にこの詩を引用しつつ、「彼の心は先へ押し進まんと望む若者と共にある、なぜなら彼が当時の進歩的理想に肩入れしていた若き日の自分を忘れていないからだ」と述べている。サン=サーンスは革新と伝統的形式の間のバランスを求めていた。評論家のヘンリー・コールズは彼の死から数日後にこう書いている。 彼の「完全な平衡」を維持するという希望の中に、一般の音楽好きに対するサン=サーンスの訴求の限界が見出される。サン=サーンスは、仮にあったとしても、滅多にリスクを取らない。彼は、さしあたってスラングを使うならば、「自制心を失う」(goes off the deep end) ということがない。同時代の大巨匠は皆していることなのに。ブラームス、チャイコフスキー、そしてフランクですらも、達成したい目的のためであれば全てを犠牲にする用意があり、必要とあらばそこへ至るための試みに嵌りこんでいく。サン=サーンスは自らの平衡を保ち、それによって聴衆が平衡を保つことを可能とするのだ。 『グローヴ音楽事典』のサン=サーンスの項は次のような言葉で締められている。彼の作品は際立った一貫性を見せる一方で「彼が特色ある音楽スタイルを発展させたとは言えない。むしろ、彼はワグネリアンの影響に飲み込まれる危機に瀕していたフランスの伝統を守り、後進を育成する環境を整えたのである。」 本人の死後、サン=サーンスの音楽に同情的な物書きらは、彼がごく僅かな楽曲、『動物の謝肉祭』、ピアノ協奏曲第2番、ヴァイオリン協奏曲第3番、交響曲第3番『オルガン付き』、『サムソンとデリラ』、『死の舞踏』、『序奏とロンド・カプリチオーソ』といった作品でしか、音楽好きの人々に知られていない現状に遺憾を表明している。ニコラスは彼の大規模作品の中から、レクイエム、クリスマス・オラトリオ、バレエ『ジャヴォット』、ピアノ四重奏曲、七重奏曲、ヴァイオリンソナタ第1番を忘れられた傑作として選び出している。2004年にスティーヴン・イッサーリスは次のように述べた。「サン=サーンスはまさに彼の音楽祭を開く必要があるような種類の作曲家である(中略)ミサ曲もあって、それらは全て興味深いものだ。彼のチェロ音楽は全て演奏しているが、ひとつたりとも悪い曲はない。彼の作品はあらゆる意味でやり甲斐がある。そして彼は尽きることのない魅力を備えた人物だ。」 「彼の偉大な名声も、またそれに続く軽視も、共に誇張されすぎてきた」と評されるように、サン=サーンスの音楽はしばしば不公平な評価を受けてきたが、1980年代ごろからふたたび彼への関心が高まり、再認識が進んでいる。
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