栄誉と指導者として
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/08 02:13 UTC 版)
「モーリス・ウィルクス」の記事における「栄誉と指導者として」の解説
1956年、王立協会のフェローに選ばれる。 英国コンピュータ協会 (BCS) の創設に関わり、初代会長 (1957–1960) を務めた。 1967年に第二回チューリング賞を受賞。以下は受賞理由の引用である。 「ウィルクス教授はEDSACの設計者および開発者として最も知られている。EDSACはプログラム内蔵式の世界初のコンピュータである。1949年に開発されたEDSACは水銀遅延線メモリを使った。彼は、1951年の Preparation of Programs for Electronic Digital Computers の著者としても知られている(Wheeler、Gill と共著)。その中でプログラムライブラリという考え方が事実上初めて紹介された」 1968年にはIEEEの Harry H. Goode Memorial Award を受賞(ハードとソフト両面における学会活動とコンピュータ専門家の国際協調への貢献に対して)。 1980年、教授職と研究所の所長職を退職し、マサチューセッツ州メイナードにあるディジタル・イクイップメント・コーポレーションの中央技術スタッフとして参加した。 1981年、英国電気学会 (IEE) からファラデー・メダルを授与された。 1986年、イギリスに戻り、オリベッティの研究戦略会議のメンバーとなる。1993年、ケンブリッジ大学から名誉博士号を贈られた。 1988年、C&C賞を受賞。 1992年、京都賞先端技術部門を受賞。 1994年、Association for Computing Machinery (ACM) のフェローに選ばれた。1997年、Mountbatten Medal を受賞。2000年のニューイヤーオナーズリストにてナイトに叙された。2002年、名誉教授としてケンブリッジ大学コンピュータ研究所に復帰。 回想録に、以下のようなくだりがある: (『ウィルクス自伝 ――コンピュータのパイオニアの回想』中村信江 中村明 共訳、丸善 (1992年) pp. 189-190) 一九四九年の六月までに、人々は正しくプログラムを動かすことが一時考えられたほど容易なものではないということに気付き始めた。この衝撃が初めて私自身に襲ってきたときのことを良く覚えている。EDSACは建物の最上階にあり、テープに穴を開けエディットする装置は一階下の微分解析機が設置されている部屋の回廊にあった。私は自分の初めての本格的なプログラムを動かそうとしていた。(略)。EDSACの部屋とパンチ装置の間を往復する旅の中の一つで、「階段の曲がり角で立ち止まった」ような気持が一度に襲った。私の残りの人生の良い部分が、自分のプログラムのエラーを探すのに費やされてしまうことを感じた。チューリングも会議では、「大規模ルーチンの検証」について話していたので、このことに気が付いていたのだろう。 (以下は略すが、プログラムの証明についての専門的な話など。チューリングが数を逆に書いたことにも触れている。(後者についてはチューリング賞講演にもある)) 後世の幾万というプログラマが、デバッグという(時にスリリングなこともあるが、基本的には新しい何かを創り出す作業ではなく、非常にうんざりさせられる)作業に対して感じたであろうことだが、それを世界でごく初期に感じたということの、記録である。
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