東京工業大学における社会工学科の発足
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「ゲーム理論」の記事における「東京工業大学における社会工学科の発足」の解説
1964年に鈴木光男がプリンストン留学から帰国し東京工業大学に就職した頃、東工大では、理工学部という単一の学部から複数の学部を作る構想が盛んに議論されており、その中に社会工学部構想があった。その背景のひとつに「工学の社会化」があった。すなわち、当時日本が高度工業社会になったことによって環境問題の表面化などにも見られるように社会と工学との関係がより密接になり、社会的な問題を抜きにしては工学が成り立たない状況になっているという認識があった。もうひとつの背景として「社会の工学化」が挙げられる。すなわち、工学の中に社会科学や人文学を取り込むことによって、理工学が開発してきた技術によって社会問題を解決しようという機運が高まっていた。東京工業大学人文社会群に所属していた鈴木光男、永井道雄、川喜田二郎、阿部統らは各々に、「社会工学私見」等という社会工学部設立の構想を当時学長であった大山義年に提出した。大山は社会工学部設立の構想を積極的に進め、1967年に工学部社会工学科が設立された。設立当初より社会工学科では「計画数理」という講座を鈴木が担当しており、その講座において日本で初めてのゲーム理論の講義が行われた。 1970年前後から日本でも経済学の他分野と同じようにゲーム理論の教科書が出版されるようになる。物理学分野出身で日本における行動科学の創立メンバーである戸田正直らによる『ゲーム理論と行動理論』(1968年)、大阪大学基礎工学部の坂口実教授による『ゲームの理論』(1969年)、大阪大学工学部の西田俊夫教授による『ゲームの理論』(1973年)などがある。また鈴木光男『人間社会のゲーム理論』(1970年)のような一般向けの解説書も出版された。さらに1978年には東京図書から『ゲームの理論と経済行動』の日本語訳版が出版された。 1970年代には鈴木光男指導の下東京工業大学ではゲーム理論の研究が盛んであったものの、東京大学を始めとする総合大学の経済学部ではマルクス経済学の勢力が強く、ゲーム理論の研究や教育は皆無であった。1980年代になって初めて鈴木光男門下の金子守によって東京大学にもゲーム理論が流入したとされる。 東京工業大学を中心とした1970年代における日本人経済学者の特筆すべき貢献として、中村健二郎の研究が挙げられる。中村は鈴木光男によるゲーム理論の講義が始まった1967年に東京工業大学理学部数学科に進学し、1969年から鈴木研究室に所属してゲーム理論の研究を始めた。中村は理学部数学科および大学院理工学研究科数学専攻に所属していたが、当時の東京工業大学には所属学科に関係なく自分の希望する研究室で研究できる制度があったため、中村は鈴木研究室の第一期生として林亜夫や中山幹夫らとともに活躍した。中村は70年代の一連の論文において社会的選択関数(英: social choice function)が存在するための必要十分条件が (1)拒否権を持つプレイヤーが一人存在するか (2)選択対象の要素の数が中村ナンバー未満であるか のどちらか一つの条件が成立していることであることを証明した。この研究は1978年の米国でのゲーム理論シンポジウムで報告され、「中村の定理」と呼ばれるようになった。「中村ナンバー(英: Nakamura number)」はこの中村の報告を高く評価したPeleg 1978によって命名されたものである。 中村健二郎は1979年3月29日に夭折したが(享年32歳)、中村の研究はRouch 1982、Deb, Weber & Winter 1996、Mihara 2000などの後続研究によって発展させられた。
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