東京・横浜への進出とは? わかりやすく解説

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東京・横浜への進出(大正末 - )

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/01 07:47 UTC 版)

吉本興業ホールディングス」の記事における「東京・横浜への進出(大正末 - )」の解説

また大正末期より、東京・横浜への進出を開始し1922年1月には神田寄席川竹亭」を買収して神田花月」として開場同年5月には、横浜伊勢佐木町寄席新富亭」を手に入れている(翌年横浜花月」と改称)。昭和に入ると、浅草公園六区興行街への進出本腰を入れ、「昭和座」「公園劇場」「万成座」を次々と手に入れた1935年11月には東京吉本本拠地となる「浅草花月劇場」をオープンさせている。また1932年3月1日吉本興行部を改組する形で吉本興業合名会社発足すると、正式に東京支社開き林弘高支社長就任した以後大阪吉本林正之助が、東京吉本林弘高率い体制確立する同年には「漫才」の名付け親として知られ、のちに同社社長にもなった橋本鐵彦1934年昭和9年)には漫才作者として名高い秋田實入社した東京吉本伝統的演芸路線を取る大阪吉本異なり徹底したモダン・ハイカラ路線打ち出した。「浅草花月オープン時には流行歌手東海林太郎タップダンサーのマーガレット・ユキを出演させ、映画上映しレビューの「吉本ショウ」を上演している。専属バンド歌手30人上のダンサー・チーム抱える「吉本ショウ」は、やがて「浅草花月」の目玉となり、ここからのちに 川田義雄、坊屋三郎益田喜頓芝利英による、ボーイズ元祖あきれたぼういず」が誕生した。「あきれたぼういず」以外にも当時東京吉本は、柳家金語楼柳家三亀松筆頭に、石田一松永田キング木下華声(元2代目江戸家猫八)、松井翠声、伴淳三郎多く東京人気芸人専属抱えていた。タップダンサー中川三郎姫宮接子元祖外国人タレント・ミス・バージニア、喜劇王「シミキン」こと清水金一コメディアン堺駿二堺正章の父)、木戸新太郎キドシン)、泉和助杉兵助当時東京吉本所属していたことがある東京吉本率い林弘高欧米視察経験もあり、当地エンターテイメント事情明るく吉本色物主体演芸会社から、ジャズタップ・ダンス主体バラエティ・ショー主軸とする興行会社近代化させようとした。ジャズ評論家瀬川昌久によれば当時東京吉本文芸部にはサトウ・ハチロー阿木翁助など多士済々作家陣在籍していたが、中でも長年吉本ショウ」の脚本を手がけていた岩本正夫は、早稲田大学文学部出身で、英語にも堪能であった。そして松井翠声がアメリカミュージカル雑誌切り抜き始終持ってきては、岩本がこれを翻案しさらには新し欧米映画何度も見てネタ拾っては、脚本書いたという。1940年には、谷口又士をリーダーとして「吉本スイング・オーケストラ」が結成され浅草花月舞台登場するが、これも当時アメリカショー・ビジネス見学した林弘高が、ちょうど結成されたばかりであるスパイク・ジョーンズコミックバンド見て感激しその日本版を狙ったといわれる

※この「東京・横浜への進出(大正末 - )」の解説は、「吉本興業ホールディングス」の解説の一部です。
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