東京オリンピックでのマラソン連覇まで
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/03 06:32 UTC 版)
「アベベ・ビキラ」の記事における「東京オリンピックでのマラソン連覇まで」の解説
オリンピックチャンピオンとなったアベベには世界からレースへの招待状が届いたが、ニスカネンはその中から出場レースを慎重に選んだ。その一つに日本の毎日マラソン(現・びわ湖毎日マラソン。当時は大阪府で開催)が含まれていたのは、次回のオリンピック開催国を下調べするチャンスという意図があった。このレースではコースに入ってきた大群衆や対向車線の車、オートバイ、それに気温27度・湿度77%という悪条件が重なり、レース中に立ち往生するというアクシデントもあって、優勝はしたもののタイムは2時間29分27秒と平凡だった。2位には同僚のワミが入っている。アベベ見たさに押し寄せた自動車やオートバイの排気ガスが記録を低調にしたとされ、かねてから交通事情悪化に悩まされていた毎日マラソンは、これを契機に翌年より滋賀県に開催地を変更している。 オニツカタイガー(現・アシックス)社長だった鬼塚喜八郎は、ローマオリンピックの際にマラソン日本代表に靴を提供していたが、彼らが惨敗する一方で裸足のアベベが優勝したのを見て衝撃を受け、「アベベに靴を履かせたい」と考えていた。毎日マラソンの折に、村社講平の紹介で社員をアベベとワミに面会させ、オニツカタイガーの靴を提案したところよい反応だったため、足形を取って靴を作って届けるとアベベは「こんな素晴らしい靴を履けるとは思わなかった」と喜んだという。しかし東京オリンピックの際にはアベベはすでに契約していたプーマのシューズで参加した(銀メダルのベイジル・ヒートリーと銅メダルの円谷幸吉はともにオニツカタイガーを履いていた)。当時の日本ではアマチュア意識の高さから、専属スポンサー契約を結べる環境になかった。 また、1961年には出場した3つのレースすべてで優勝を飾ったが、1962年はレースに出場せず、1963年のボストンマラソンは5位とふるわなかった。国民の期待や、走ることで得た地位から来る重圧があった。このころ、妻には「走ればまた勝つと思われているっていうのは辛いことだな」という言葉も漏らしたという。ローマで樹立した記録は1963年2月に寺沢徹が更新、その後もレオナルド・エデレンやベイジル・ヒートリーが短期間に記録を塗り替えていた。 1964年春、アベベは軍曹に昇進した。5月にアディスアベバで1年ぶりにマラソンを走って優勝。8月の東京オリンピックの国内予選では自己2位となる2時間16分18秒8で優勝し、代表に選ばれる。しかし、競技の6週間前に盲腸の手術を受け、ニスカネンの立てた練習スケジュールは大きく狂った。このため、日本の代表選手のコーチたちも「アベベはマークの対象にしていなかった」とのちに語っている。アベベはエチオピア選手団の一員として9月29日に来日し、選手村や隣接した織田フィールドで毎日走った。10月10日の開会式ではエチオピア選手団の旗手を務めている。 10月21日の東京オリンピックマラソン本番では、20km地点辺りから独走態勢に入り、全く危なげのないレース運びで、ヒートリーの記録を1分44秒縮める2時間12分11秒2の世界最高記録で再び金メダルを獲得した。近代オリンピック史上、マラソンの種目で二連覇はアベベが初めての快挙であった。それ以後、オリンピックのマラソン競技で世界(最高)記録を樹立したランナーは出現していない。 アベベはゴールした後に疲れた様子も見せずに整理体操を始め、7万人の観衆を驚かせた。後にアベベは「まだあと10キロは走れた」と語っている。
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