東京オリンピックへの道
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/02 10:09 UTC 版)
1962年(昭和37年)に、東京オリンピックに備えて前年発足した自衛隊体育学校がオリンピック候補育成のため、特別課程の隊員を募集した際には腰痛のため選考会に出られなかった。そのため、選考委員は円谷の持病の悪化を考え、円谷の選考に躊躇したが、同年開催された毎日駅伝のオール自衛隊チームでマネージャーだった畠野洋夫の推薦を受け、体育学校への入校が決定する。 体育学校入校当初は腰痛が治らず、満足に走れなかった。しかし畠野と同じく陸上班の教官だった澤田幸作が根気よく指導し治療を続けた結果、レースに復帰する(畠野はマネージャーであり、円谷の実際のコーチングは澤田が行っていたといわれている。澤田は駅伝オール自衛隊チームのコーチを務め、陸上班の教官兼、1962年の日本競歩選手権50km競歩で2位のアスリートであった)。円谷は10月の日本選手権で5000mに日本歴代2位の記録を出し、日本陸連からオリンピック強化指定選手に選ばれる。 翌年の1963年(昭和38年)8月には20000mで2位ながら世界記録を更新。10月の競技会では好記録を連発して10000mのオリンピック代表選手に選ばれた。この段階では円谷はトラックと駅伝の選手と見られており、マラソンは未経験だった。しかし、日本陸上競技連盟の強化本部長だった織田幹雄は円谷のスピードに着目してマラソンを走ることを勧めた。 東京オリンピック開催年の1964年(昭和39年)に、同年3月20日の中日マラソンで初マラソンに挑戦。2時間23分31秒で5位となる。それからわずか約3週間後の4月12日、オリンピックの最終選考会となる毎日マラソン(現在のびわ湖毎日マラソンの前身。このときは東京オリンピック本番と同じコースで実施)に出場、2時間18分20.2秒で君原健二に次ぐ2位となり、マラソンでもオリンピック代表となる。 なお、オリンピック本番までのマラソン経験3回は、戦後の男子マラソン代表では森下広一(2回)に次ぐ少ない記録であるが、初マラソンからオリンピック本番までの期間は森下が1年半あったのに対し、円谷は7か月(正確には7か月と1日)でこれは戦後では最短記録である。
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