朝日訴訟
「朝日訴訟」とは、生活保護法の内容について争った行政訴訟のことを意味する表現である。
「朝日訴訟」の基本的な意味
「朝日訴訟」は、1957年に、朝日茂によって起こされた訴訟である。朝日は結核を患っており、国立岡山療養所に入所していた。そして、生活保護法に基づき、月600円の生活扶助と医療扶助を受けていた。1956年には、それまで音信不通であった朝日の兄が見つかり、福祉事務所の要求に従い、朝日に月1500円の仕送りをすることになった。しかし、朝日はその仕送りの内、生活費として600円しか受け取れず、残りの900円は医療費に当てられた。月600円という金額は、当時の価値で、1年に1度下着のパンツを1着購入できる程度の水準であった。そのため、朝日は、少なくとも1000円は控除してほしいという不服申立てをした。しかし、岡山県と厚生大臣はそれを却下したため、朝日は訴訟に踏み切ることとなった。朝日の訴訟内容は、月600円という生活保護が、日本国憲法第25条に書かれている「健康で文化的な最低限度の生活を営む権利」、生存権の水準には足りないというものであった。
裁判の第一審は東京地方裁判所で行われ、朝日の主張が全面的に認められた。しかし、東京高等裁判所で行われた第二審では、600円という金額が憲法違反になるほどではないという理由で、朝日の主張は却下された。そうして、裁判は最高裁判所まで持ち込まれることとなった。ただ、上告審を行っている間に、原告である朝日が病死したため、訴訟終了の判決が下された。訴訟自体は朝日の養子が継続したが、生活保護を受ける権利は相続できないという判決内容であった。
朝日訴訟と呼ばれた訴訟は、原告の死亡によって終了したが、最高裁判所は念のためという前置きの上で、意見を述べている。その内容は、日本国憲法第25条に書かれている生存権は、国民が健康で文化的な最低限度の生活を営めるよう国が努力すべき目標であり、国民ひとりひとりに権利が与えられるものではないというものであった。そして、国民が健康で文化的な最低限度の生活を営める水準決定は、厚生大臣に委ねられるとした。
日本国憲法第25条は、様々な解釈をされ、複数の説が生まれている。その中で、朝日訴訟の最高裁判決で述べられた、国民個人に権利を与えるのではなく、国の努力目標であるとするのは、プロクラム規定説と呼ばれる。そのプログラム規定説に基づき、個人では生存権を請求した訴訟はできないとされた。そして、現代では、憲法や生存権に関する議題として、朝日訴訟が取り上げられることが多い。
朝日訴訟において、日本の最高裁判所は、プログラム規定説を強く支持することとなった。そのことが、後に起こされた堀木訴訟に影響を与えている。堀木訴訟は、視覚障害を持つ原告が、障害者年金と児童扶養手当の同時受給禁止が、憲法第25条に違反することなどを訴えたものだ。この訴訟は、朝日訴訟で示されたプログラム規定説の考えに基づき、最高裁判所で棄却されている。
「朝日訴訟」の語源・由来
「朝日訴訟」の語源は、訴訟を行った原告、朝日茂の名字である。「朝日訴訟」に関連する用語の解説
「人間裁判(朝日茂の本)」とは
「人間裁判」は、朝日訴訟の原告である朝日茂の、生い立ちから亡くなるまでの手記をまとめたものである。朝日茂の死後、朝日訴訟記念事業実行委員会が編集を行い、2004年に出版した。朝日訴訟は、人間らしい生活とはどういったものかを問いかけた訴訟であり、人間裁判とも呼ばれた。そのことから、手記のタイトルが人間裁判になっている。
「朝日訴訟」の使い方・例文
「朝日訴訟」は、憲法や社会保障に関する用語として使用されることが多い。実際に使用する場合、「彼は、生存権に関する主張をする際に、朝日訴訟を例として挙げた」「生活保護の内容が変わるというニュースが流れたことで、朝日訴訟が改めて注目されている」といった使い方となる。あさひ‐そしょう【朝日訴訟】
朝日訴訟
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/07/10 05:48 UTC 版)
最高裁判所判例 | |
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事件名 | 生活保護法による保護に関する不服の申立に対する裁決取消請求 |
事件番号 | 昭和39年(行ツ)第14号 |
1967年(昭和42年)5月24日 | |
判例集 | 民集第21巻5号1043頁 |
裁判要旨 | |
生活保護法の規定に基づく保護受給権は一身専属権であり、相続の対象とはならないから、保護変更決定についての不服申立却下裁決に対する取消訴訟は、原告の死亡により当然に終了する。 | |
大法廷 | |
裁判長 | 横田喜三郎 |
陪席裁判官 | 入江俊郎、奥野健一、五鬼上堅磐、草鹿浅之介、長部謹吾、城戸芳彦、石田和外、柏原語六、田中二郎、松田二郎、岩田誠、下村三郎 |
意見 | |
多数意見 | 横田喜三郎、入江俊郎、奥野健一、五鬼上堅磐、長部謹吾、城戸芳彦、石田和外、柏原語六、下村三郎 |
反対意見 | 草鹿浅之介、田中二郎、松田二郎、岩田誠 |
参照法条 | |
民事訴訟法第208条、生活保護法第59条、行政事件訴訟法第9条 |
朝日訴訟(あさひそしょう)とは、1957年(昭和32年)に、国立岡山療養所に入所していた朝日茂(あさひ しげる、1913年7月18日 - 1964年2月14日:以下「原告」)が厚生大臣を相手取り、日本国憲法第25条に規定する「健康で文化的な最低限度の生活を営む権利」(生存権)と生活保護法の内容について争った行政訴訟である。原告の姓からこう呼ばれる。
訴訟の概要
結核患者である原告は、日本国政府から1カ月600円の生活保護による生活扶助と医療扶助を受領して、岡山県の国立岡山療養所で生活していたが、月々600円での生活は無理であり、保護給付金の増額を求めた。[1]
1956年(昭和31年)、津山市の福祉事務所は、原告の兄に対し月1,500円の仕送りを命じた。市の福祉事務所は、同年8月分から従来の日用品費(600円)の支給を原告本人に渡し、上回る分の900円を医療費の一部自己負担分とする保護変更処分(仕送りによって浮いた分の900円は医療費として療養所に納めよ、というもの)を行った。[1]
これに対し、原告が岡山県知事に不服申立てを行ったが却下され、次いで厚生大臣に不服申立てを行うも、厚生大臣もこれを却下したことから、原告が行政不服審査法による訴訟を提起するに及んだものである。
原告の主張
原告は、当時の「生活保護法による保護の基準」(昭和28年厚告第226号)による支給基準600円では生活出来ないと実感し、日本国憲法第25条、生活保護法に規定する「健康で文化的な最低限度の生活を営む権利」を保障する水準には及ばないことから、日本国憲法違反にあたると主張した。
判決
- 第一審の東京地方裁判所は、日用品費月額を600円に抑えているのは違法であるとし、裁決を取り消した(原告の全面勝訴)(東京地判昭35.10.19 行裁11.10.2921)。
- 第二審の東京高等裁判所は、日用品費月600円はすこぶる低いが、不足額は70円に過ぎず憲法第25条違反の域には達しないとして、原告の請求を棄却した(東京高判昭和38.11.4 行裁14.11.1963)。
- 上告審の途中で原告が死亡し(1964年2月14日に死去)、養子夫妻が訴訟を続けたが、最高裁判所は、生活保護を受ける権利は相続できないとし、本人の死亡により訴訟は終了したとの判決を下した(最大判昭和42.5.24 民集21.5.1043)。
念のため判決
最高裁判所は、「なお、念のため」として生活扶助基準の適否に関する意見を述べている。それによると「憲法25条1項はすべての国民が健康で文化的な最低限度の生活を営み得るように国政を運営すべきことを国の責務として宣言したにとどまり、直接個々の国民に具体的権利を賦与したものではない」とし、国民の権利は法律(生活保護法)によって守られれば良いとした。「何が健康で文化的な最低限度の生活であるかの認定判断は、厚生大臣の合目的的な裁量に委されている」とする。
この部分は、プログラム規定説のリーディング・ケースである食糧管理法違反事件(最高裁判所昭和23年9月29日)が示した生存権の解釈を踏まえている(ただし、憲法第25条に裁判規範性を認めている点で、完全なプログラム規定説ではないことに注意する必要がある)。傍論で生存権の性格について詳細に意見を述べた最高裁のこの判決を「念のため判決」と呼ぶことがある。
学校教育における本訴訟の取り上げ方昭和60年代までの小中学校社会科の文部省検定済教科書には、基本的人権の尊重の問題点を挙げる際に、真っ先に本訴訟が取り上げられた。現在でも、高等学校用教科書などで取り上げられている。
原告
朝日茂は、1913年岡山県生まれ。1936年、中央大学二部卒業。1940年、結核のために国立岡山療養所早島光風園に入院した。1948年、日本患者同盟を結成、1949年、中央委員、1956年、生活保護変更決定に対する行政不服申し立てを却下され、1957年、生活保護基準が憲法に違反するとして行政訴訟を提訴し、1960年、一審で勝訴、1963年、二審で敗訴、1964年、最高裁上告中に死去した。(訴訟は養子夫妻が継承し、1967年、敗訴した。)
脚注
関連項目
外部リンク
- NPO朝日訴訟の会 ホームページ
- 神田憲行 (2016年3月30日). “GHQでなく日本人が魂入れた憲法25条・生存権ー「600円では暮らせない」生存権問うた朝日裁判”. 日経ビジネス (日経BP) 2018年8月1日閲覧。
- 『朝日訴訟』 - コトバンク
固有名詞の分類
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