最新鋭の海軍炭鉱
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/07 03:11 UTC 版)
海軍練炭製造所採炭部の経営形態は、海軍省直轄で上層の粉炭を採掘し、下層の塊炭は福岡県糟屋郡の内田鼎が請負採掘する方式であった。海軍練炭製造所採炭部は大嶺炭田中央部の桃ノ木、荒川、奥畑の浅部に埋蔵されている石炭を採掘し、産出が軌道に乗ったのは1906年(明治39年)夏以降であったという。なお内田鼎との請負契約は1919年(大正8年)3月に解除となり、以後は海軍直営一本となった。 海軍は炭鉱経営を行うにあたり、設備を大幅に更新、近代化した。まずは坑内外の設備の電化であった。火力発電所を麦川に設け、宮原二郎が発明した当時の海軍艦船の主力ボイラーであった宮原式水管ボイラーを1908年(明治41年)2月末の段階で3台、発電機を3台設置した。なお、1910年(明治43年)6月には宮原式水管ボイラーを4台、合計800馬力、発電機は3台で出力は1000キロワットであったとの記録が残っている。 麦川の発電所で発電された電力は炭鉱の諸設備の運転に使用された。坑内の通気は海軍の経営となった当初は自然換気であったが、後に桃ノ木坑、櫨ケ谷坑ではキャベル式扇風機が使用されるようになった。排水についてもポンプを使用し、これまでの大嶺炭田の炭鉱では排水設備が整わなかったために水平に坑道を掘り進めるしかなかったものが、炭層の傾斜に合わせた斜坑を設けることが可能となった。また坑道が深くなるにつれて坑内から発生するガスに引火する危険性を考慮して、坑内の明かりは全てデービー灯やクラニー灯といった安全灯を使用するようになった。 しかし桃ノ木坑、櫨ケ谷坑では、毎年梅雨時となると出水量が増加して坑内からの排水が困難になっていた。中でも1916年(大正5年)の梅雨は雨が長期間降り続いたため、ポンプを増設して排水に努めてみたものの結局排水が追いつかなくなってしまい、一時採掘を中止せざるを得なくなった。 石炭の採掘は手堀が基本であったが岩石の掘進時には削岩機も用いられた。坑内で採掘された石炭の搬出には電気巻上機を用い、桃ノ木坑、櫨ケ谷坑から麦川にあった選炭所までの輸送には索道が用いられた。麦川までの道のりが平坦であった荒川坑からは当初は馬車が使用されたが、後にはエンドレスロープ(巻ロープ)が用いられるようになった。また機械の修理工場があって、炭鉱で故障、破損した機械類の修理を行っていた。 なお石炭輸送用の鉄索はドイツのブライベルト社製で、ドイツ人技師の指導によって建設されたもので、1919年(大正8年)、1937年(昭和12年)には新しい索道が設けられ、1961年(昭和36年)9月に廃止されるまで、大嶺炭田のシンボルの1つとして親しまれた。1933年(昭和8年)8月に大嶺炭田付近を訪れた種田山頭火は 炭車が空を 山のみどりからみどりへ と、大嶺炭田の石炭輸送用鉄索を俳句に詠んでいる。 産出された石炭は全て麦川の選炭所に集められて選炭が行われた。海軍艦船用の練炭原料として品質管理は厳しく、灰分25パーセント以下(1キログラム当たり約6000キロカロリー)と決められていた。練炭の原料として徳山の海軍練炭製造所に輸送されたのは上層の粉炭が中心であり、径13ミリメートル以下の粉炭、そして選炭所で良炭とされた塊炭は海軍練炭の原料として使用された。粗悪炭とされたものの一部は後述のボイラーの燃料とされたというが、基本的には廃棄処分となった。選炭作業はまず粉炭と塊炭に分離するために篩にかけられた。大嶺支線(美祢線)の引込線が選炭所まで延伸されており、粉炭についてはそのまま貨車に積み込まれた。一方、塊炭は選炭によって上質炭を選別し、上質炭は粉砕の上、粉炭とともに貨車で徳山の海軍練炭製造所に輸送された。
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