旧跡 ・文化財
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直島女文楽 明治以降一旦途絶えた島の人形浄瑠璃を、戦後まもなく女性たちだけの手で復活したもの。1962年(昭和37年)9月20日 - 「直島女文楽 人形頭及び衣裳」として県の有形民俗文化財に指定。 1984年(昭和59年)8月14日 - 「直島女文楽」として県の無形民俗文化財に指定。 喜兵衛島製塩遺跡 1979年(昭和54年)6月25日に国の史跡に指定された。 崇徳天皇神社 上皇の住んでいた泊ヶ浦(積浦)にあった行在所を山上に建てられた神社に移設してある。 八幡山極楽寺 高野山真言宗の寺院。本尊は阿弥陀如来座像。
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旧跡・文化財
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文化財指定 広島城跡 - 本丸・二の丸が国史跡、旧城郭全域つまり基町全域が県史跡外郭櫓跡 - 空鞘橋付近にある捨石遺構。 周辺の地下道では旧石垣を用いたモニュメントが設置されている。 (広島大本営跡 - 旧法による史跡で現法では外されている) 市認定被爆遺構 中国軍管区司令部跡 被爆樹木 - 2019年時点で8本生息している。 その他 広島臨時帝国議会議事堂跡碑 加藤友三郎銅像 池田勇人銅像 灘尾弘吉銅像 旧護国神社鳥居 歩兵第11連隊跡 広島陸軍幼年学校跡 平和観世音菩薩像 広島臨時帝国議会議事堂跡碑 原爆犠牲米軍人慰霊銘板(広島原爆で被爆したアメリカ人参照)
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旧跡・文化財
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弥生時代の遺跡は標高90 mより低地にて多く分布している。現在の河道域では妙楽寺遺跡が知られているほか、金沢町から上石寺にかけての旧河道域では銅鐸が出土した石寺遺跡やそのた稲里・上岡部遺跡などが分布している。古墳は宇曽川の周辺に形成された谷口部の扇状地に大半が立地し、その次に下流の荒神山周辺に立地する。谷口部の古墳は20基程が現存するが、かつては298基もあり県内有数の古墳群であった。これらの古墳より古来から秦氏が移住していたことが分かるほか、軽安孫子氏・蚊野氏・大中臣氏などのものが多いため当時の中央政権との関係が深かったと考えられる。こうした古墳群は扇状地に立地しており、開発が困難ゆえに墓地として活用されたと考えられる。反対に、条里制の区割りは扇状地からはずれた愛荘町軽野から下流で見られる。この付近では白鳳時代と考えられる寺院跡が点々と分布する。これらの土地利用より、宇曽川扇状地に墓地を構えた秦氏が、愛知川扇状地の軽野より下流を開発し、白鳳時代には条里状に土地を開発し終えて寺院が建立するようになったとみられる。下流の荒神山付近では古墳が30基ほど作られ、弥生時代前期からの集落跡が発掘されて継続的に集落が営まれたと考えられる。 荒神山北側は宇曽川の沖積化が進まず低湿地化し開発が困難になっていたが、聖武天皇の勅によって覇流荘として751年までに開発された。 中世以降は非条里地帯の開発が進み、かつて墓域であった宇曽川扇状地域が耕地化されている。また耕地化されてこなかった宇曽川中流の肥田や三津では15世紀頃に築城が行われた。肥田城は1559年に合戦が行われ、慶長以降は廃れてしまった。この肥田城は宇曽川を北防とし、その他3方に土塁を設けた城であり、遺跡としては良好な状態で残っていた。どちらの城でも中世に見られた防衛集落であり、妙楽寺遺跡で見られた日夏氏が作った城下町においても同様の形態が見られる。 15世紀以降には宇曽川下流部において河道が付け替えられ、この時にかつてあった覇流荘が曽根沼に沈んだとされる。 宇曽川流路工(愛荘町松尾寺) 山地の蚕食を防ぐための、石張り水路。1911年(明治44年)から翌年にかけて建設された。国の登録有形文化財。
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