日高丸沈没
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/28 01:56 UTC 版)
日高丸(初代)は9月26日11時20分、81便として貨車43両積載し、青森第3岸壁を出航、海峡は東の風23m、波6の荒天航海で、定刻15時50分函館有川桟橋の函館第4岸壁到着のところ、約40分遅れで北口から入港したが、東風強く着岸断念し、16時33分有川埠頭沖の防波堤内の西防波堤灯台真方位84度、900m地点で両舷錨鎖175mで錨泊した。17時00分頃は平穏で沖泊めのまま乗組員交代を行ったが、18時00分頃からは南寄りの風が強くなり、19時00分には南南西の風30mとなり、19時20分には錨鎖を両舷200mまで伸ばし19時30分には、船首を風に立てるため主機運転を開始した。 この頃、無動力で防波堤内を走錨していたイタリア船籍の修繕船アーネスト号(7,341総トン)を避けるため、防波堤外へ出ようとする大雪丸(初代)が日高丸(初代)の目前を通過した。20時00分頃には風は更に強まり、両舷全速前進でも、徐々に有川埠頭方向へ走錨し、またアーネスト号に接触される恐れもあるため、21時15分、防波堤外へ出ることを決断し揚錨開始。21時45分揚錨完了して防波堤外へ向け前進し、21時58分、港口通過した。 しかし、防波堤外の波浪は猛烈を極め、船体は激しく動揺し、22時10分には車両甲板船尾開口部からの大量の海水浸入が始まり、これがボイラー室、機械室へも流入した。22時17分には前方で錨泊中の十勝丸(初代)から無線電話で、「本船浸水はなはだしくなり、缶も焚けず、電気も消え、沈没寸前にあり、本船に近寄るな」との連絡が入り、風波のため操船が思うようにできない日高丸(初代)は、この前方の十勝丸(初代)を避航できそうにないため、22時25分、 防波堤外の西防波堤灯台から磁方位西約0.9海里付近に錨泊。右舷錨を投錨中、左舷側方50m付近に船首部船底を海面上に出して転覆している沈船(後に第十一青函丸と判明)を発見、全速後進して錨鎖を全長の250mまで伸ばしきってこれを避けた。 しかしこの沈船に接近し過ぎるため、機関を使用して船首を風波に立てることができず、浸水量はますます増加し、横傾斜は右舷約20度で、船首が若干突込み体勢となり、使用可能缶も2缶となった。防波堤内に戻るも、七重浜に座礁させるもボイラー使用可能なうちの揚錨が必要なため、23時00分、錨を捨てる決断をし、23時35分頃、錨鎖庫の止め金具を外して錨鎖切断し、機関全速前進発令したが既に機関は停止状態であった。これと前後する23時34分、SOSを発信し、全員退船命令が発せられ、23時43分頃、積載車両右舷側へ転倒とともに右舷へ転覆、沈没、函館港西防波堤灯台より真方位264度1530m、水深20mの地点であった。乗組員76名中56名が亡くなった
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