日本におけるインターアーバンの展開
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/09/17 22:12 UTC 版)
「インターアーバン」の記事における「日本におけるインターアーバンの展開」の解説
これ以降も、インターアーバン的な私鉄路線の建設は盛んに行われたが、その性質は本家のアメリカのものとは徐々に乖離するようになっていった。アメリカのインターアーバンの建設が1908年を境にあまり行われなくなったのに対し、日本ではむしろそれ以降に盛んとなり、1930年代まで新規路線の開業が続いたのは、もっとも大きな相違点と言える。第一次世界大戦以降は、日本のインターアーバンはアメリカのものとは別個に、独自の発展を遂げることになった。 建設時期や専用軌道区間が多く、通勤輸送が主体であるという特徴はロサンゼルスのパシフィック電鉄などにも共通した特徴であるが、日本ではアメリカのごとく、電気鉄道の発展期に自動車の影響をほとんど受けなかった。モータリゼーションの遅れから1930年代までバスの影響を受けず、バスが普及した1930年代以降も道路整備が貧弱であったことから、零細規模な路線を除いてはバスより優位であった。さらに自家用車に至っては1960年代まで競争相手とはならず、路線の近代化などを後年まで継続しておこない得たのである。 更に日本のインターアーバン各社は、輸送需要の喚起を兼ねた経営多角化に積極的に取り組んだ。電鉄会社が副業として不動産業や遊園地を経営する事例はアメリカでも多く見られ、駅に併設された市場(フィラデルフィアのレディングターミナルなど)や百貨店(クリーブランドユニオン駅など)もアメリカの事例が先行するが、長期間に渡って鉄道業と共に安定的な発展を成し遂げ、高い知名度を得るようになったという点で日本の事例は特異的である。 電鉄企業自体がディベロッパーとなった沿線不動産開発や、日本における鉄道駅併設型百貨店(ターミナル・デパート)経営などは、小林一三の率いる阪急によって先鞭が付けられ、1930年代以降特に盛んとなり、鉄道事業本体と並んで私鉄企業の重要な収益部門へと成長していった。やがて大手電鉄企業各社は鉄道業のみに留まらず、半ばコングロマリット(多角化大企業)化するという特異な発達経過をたどる。 1920年代から1930年代初頭にかけ、日本における第二世代のインターアーバン路線として阪神急行電鉄(現、阪急神戸本線)、愛知電気鉄道豊橋線(現、名鉄名古屋本線神宮前以東)、神戸姫路電気鉄道(現、山陽電気鉄道本線明石以西)、新京阪鉄道(現、阪急京都本線)、阪和電気鉄道(現、JR阪和線)、小田原急行鉄道(現、小田急小田原線など)、東武鉄道(現、東武日光線など)、奈良電気鉄道(現、近鉄京都線)、参宮急行電鉄(現、近鉄大阪線ほか)、九州鉄道(現、西鉄天神大牟田線)などが建設された。また、関西では、1934年に京阪神緩行線が開業し、日本でも珍しい官営インターアーバンが誕生した。 これらはいずれも直線主体の線形を備え、直流1500V電化や100ポンド級 (45-50kg) 重軌条の採用など概して高規格であり、そのなかでもレベルの高かった阪急・新京阪・阪和・参急等の関西私鉄では、当時の鉄道省(国鉄)特急列車の表定速度を軽く凌ぐほどの高速電車が運行されていた。阪和が運行した超特急に至っては、戦後も14年間破られない日本の表定速度記録をつくったほどである。 これら日本の第二世代インターアーバン各社は、1910年に改良工事を行い、専用軌道上では平均105km/hの運行を行っていたワシントン・ボルチモア・アナポリス電鉄や、1919年にシカゴ高架鉄道への直通運転をはじめたノースショアー線など、アメリカでの事例を参考にしたものとも考えられるが、同時期のアメリカでは、既存の大手幹線鉄道であるペンシルバニア鉄道とニューヨーク・セントラル鉄道のニューヨーク近郊区間で電化が進められてもおり、いずれの事例を参考にしたかは定かでない。
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