新聞記者・作家として
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1946年(昭和21年)、海軍機関学校出身の同期(コレス)の紹介で岐阜の新聞社に入社。名古屋の中日新聞社記者であった1947年(昭和22年)、処女作「ニューカレドニア」を発表。翌年、職業軍人パージに遭い、双立社という出版社に勤め、『小説と講談』を担当、多くの作家の知遇を得て、宮内寒弥の紹介で丹羽文雄らの十五日会に出入りする。。しかし1949年(昭和24年)、双立社が廃業。岐阜の教科書会社・教育図書に勤務。 1951年(昭和26年)、『ミッドウェー海戦』で岐阜県文化賞受賞。会社を辞め上京、小説を書く。1952年(昭和27年)、公職追放解除により中日新聞社に復帰。1956年(昭和31年)、東京支社文化部に転属。1971年(昭和46年)、『長良川』で第64回直木賞を受賞。以降職業作家として執筆活動に専念するが、自由出勤が認められたため中日新聞社は定年まで勤める。 豊田と共に捕虜になった相川は、戦後は航空自衛隊に入って三等空佐で退官し、伊東温泉でマッサージ師をしていたが、1976年3月8日に割腹自決を遂げた。元部下への聞き取りから、動機が捕虜となっていた事への負い目であると分かり、自著『割腹』にて「海上に漂流する浮舟の二人のうち、一人が突然別れの挨拶もかけずに消滅し、自分だけが浮舟の上に取り残されたのを意識した。」と記した 1981年(昭和56年)、この年公開された東宝映画『連合艦隊』で、児島襄との共同で、映画の企画協力を担当。 1986年(昭和61年)、紫綬褒章受章。1992年(平成4年)、中日文化賞受賞。 1994年(平成6年)、死去。享年74。
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