文革まで
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/15 06:04 UTC 版)
1933年3月28日、中華民国期(国民政府期)の北京市(当時は北平市)に生まれる。父親は北京協和医学院(中国語版)で栄養学者を務める知識人で、李学勤はその一人息子だった。幼少の頃から病弱で、学校に通うことが困難だったため、主に自宅での読書を通じて勉学に励んだ。 1951年、清華大学の哲学科(zh:清华大学哲学系)に入学する。同学科は、馮友蘭や金岳霖(中国語版)が講義していた哲学の中心地だったが、李学勤は哲学よりも甲骨文字に関心をもっていた。そのような事情から、同大学の中国文学科(zh)にいた甲骨学者、陳夢家に師事するようになる。陳夢家はちょうどこの時、政治的理由から清華大学を追放されて、中国科学院の考古研究所(zh)に異動していた。 1952年、その陳夢家との縁で、あるいはこの年の大規模な大学再編(zh:中国高等院校院系調整)による清華大学人文系諸学科(zh)の解体から逃れて、李学勤は清華大学を中退し、中国科学院で甲骨研究の手伝いとして働くようになる。 1954年、中国科学院に新設された歴史研究所(zh)に配属され、そこの所長を務める唯物史観論者、侯外廬(中国語版)の助手となり、侯外廬学派(中国語版)の一翼を担う。この頃から論文を書き始め、1959年には最初の単著『殷代地理簡論』を出版する。 1957年、かつての恩師の陳夢家が、反右派闘争により「右派分子」として政府から糾弾されてしまう(陳夢家#生涯)。同年、李学勤は考古研究所からの依頼により、陳夢家の著書『殷墟卜辞綜述』(zh)の書評を機関誌の『考古学報』に寄稿する。しかしその内容は、書評というよりは、陳夢家の学者としての資質を否定する人身攻撃のような内容だった。陳夢家は、その後も苦境の中で研究を続けるが、1966年に文革の渦中で自殺してしまう。李学勤は文革終了後、記者のピーター・ヘスラー(英語版)らから件の書評について尋ねられた際、当時はそうせざるを得なかったと述べつつ、悔恨の念を吐露している。2006年には、陳夢家の追悼記念座談会に出席し、『殷墟卜辞綜述』を肯定的に評価する文章を発表している。 1960年代から1970年代にかけては、歴史研究所の図書館の管理を担当しつつ、研究実習員から助理研究員・研究員へと徐々に昇進する。その間、甲骨文字の研究と併行して、馬王堆帛書や睡虎地秦簡といった新出文献の整理に参加したり、方以智の『東西均』の抄本を整理したりしている。1970年には、五七幹部学校(中国語版)に下放されるが、翌1971年、中国科学院院長の郭沫若が当時編纂していた『中国史稿』(zh)を手伝うために帰京する。
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