文革前後の劉少奇
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/13 03:57 UTC 版)
批判の渦中にあった1967年1月、憔悴しきった劉少奇は毛沢東に面会し、辞職して隠遁したいと申し出た。毛は終始同情的な態度で接し、ゆっくり休んで自身を再教育せよ。ヘーゲルともう一人の本を読んではどうかと答えた。その直後、毛は劉が迫害されている報を受けたが、黙殺した。さらに、劉が最悪の環境の中で病に倒れると「政治的に一線を画すとも、生活水準を下げてはならぬ。」と厳命し、寛大さを示して自身が迫害に関係していないポーズをとろうとした。 幽閉中の劉は病気となり、家族に会うことも叶わず、手足も不自由となり着替えや食堂に移動するのにも1時間近くかかるほど衰弱していた。それにも関わらず、監視する兵士は助けようとしなかった。やがて劉は危篤に陥ったが、党中央は迅速に対応して治療を行ったため、一命を取り留めた。だがそれは、生きているうちに劉少奇を党から除名して、恥辱を与えよという江青の指示によるものであった。
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