文革による失脚
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/01 14:04 UTC 版)
1965年11月に部下の呉晗副市長が執筆した『海瑞罷官』が姚文元によって「ブルジョアジーや地主の復活を図り、人民公社解体を狙うもの」と批判された(詳細は『新編歴史劇『海瑞罷官』を評す』の項参照)。彭真は「上海市でも『海瑞上疏』(海瑞が嘉靖帝に直訴し罷免される歴史劇)を上演したが、張春橋(上海市党委書記)に責任は無いのか」と批判し、管轄下にある北京市の媒体に、姚文元による呉晗批判の評論の転載を拒否した。これに対して毛沢東が不満を漏らし、周恩来が仲介に出てきたために、各紙へ転載させたものの、あくまでも文芸領域の学術論争にとどめようとして、部下に命じて呉晗の擁護と姚文元批判をさせた。 彭真は1964年に設立された文化革命五人小組の組長を兼任していたが、この小組を利用して全国規模で呉晗批判を抑えようとした。小組の一員で唯一実権派でなかった康生だけは「政治問題であり廬山会議の政治的背景と通ずる」と主張したものの、彭真の方針に沿って「二月提綱」(当面の学術討論に関する報告提綱)が執筆され、政治局常務委員会に提出され支持を得ると、全党の正式文書として伝達された。 しかし、毛沢東は呉晗・鄧拓・廖沫沙ら「三家村」を「共産党員ではあるが反共であり国民党員」と批判し、戚本禹は「人民に罷免された右傾機会主義分子の復活を呼びかけるもの」「再び侵攻を始める合図」と人民日報で発表して、彭真が呉晗を擁護してきたことを批判。1966年3月に毛沢東によって名指しで批判された彭真は、4月に自己批判を行ったものの、さらに毛によって名指しで再批判された。5月1日、メーデー祝賀行事が開かれたが、彭真が出席することはなかった。5月16日の党中央政治局拡大会議において五・一六通知が採択されると、二月提綱は取り消され、文化革命五人小組は廃止、新たに文化革命小組の設置が決定された。これにより、彭真の失脚が決定的となった。 6月27日に劉少奇主催による「彭真・陸定一・羅瑞卿・楊尚昆反革命集団」についての座談会が行われ、「彭・陸・羅・楊の関係は不正常だ。いったいどういった関係で、どの程度になっているのか。(中略)彼らは毛主席に反対し、毛沢東思想に反対し、地下活動をやっているという特徴がある」と批判される。8月の第8期11中全会で中央書記処書記を解任。文化大革命が激しさを増し古参党員が次々と迫害に遭うなか、彭真も例外ではなく、紅衛兵が「反革命修正主義分子」と書いたプラカードをかけて引き回す写真は海外にも配信され、世界に衝撃を与えた。
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