政友会と国民党の提携・同志会の結成
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「大正政変」の記事における「政友会と国民党の提携・同志会の結成」の解説
山縣元老らは、桂の政界復帰により桂園体制が復活し、藩閥と政友会との連携による政権運営が継続してゆくと見込んでいた、しかし、首相就任によって政界復帰を果たした桂は、内大臣就任前に企図していた二大政党制構想に基づき、自前の政治勢力の結成、新党設立を目論んでいた。そのため、内閣の陣容は非山縣系の閣僚で固めたほか、12月18日に桂が西園寺総裁を訪れた際、政権運営に当たり「政友会に対して厚意は望むものの、特に希望する事項はなし」と、遠回しに政友会との連携に否定的な態度をとった。つまりこの時点で、桂は山縣率いる藩閥、および政友会と意図的に距離を取り始めたのである。 これをきっかけに政友会は桂率いる藩閥勢力との提携打ち切りを決断、憲政擁護運動に肩入れするとともに、桂園時代には距離を置いていた議会第二党の立憲国民党(犬養毅党首)との連携を強めた。12月27日には、野党の国会議員や新聞記者、学者らが集まって護憲運動の地方への拡大を決めた。その後、1913年(大正2年)1月にかけて運動は全国に広がり、日露戦争後の重税に苦しむ商工業者や都市民衆が多数これに参加した。 第3次桂内閣は、政見として、行財政整理の推進(政友会の地方利益誘導政策の是正)、「国防会議」による軍備拡張額管理(編制大権)の制度化や軍務大臣文官制の導入(山縣率いる陸軍閥のへの牽制)を掲げる(ただし、上述の海軍との対立によって、後者は政権発足前に打撃を受けた)。桂首相は国内で広がっている運動にも楽観的で、自らの新党構想が明るみに出れば、世論の矛先は藩閥や政友会に向かい、自身は輿論の支持を得られると想定していた。1月20日、桂は新聞記者を集めて新党・立憲同志会結成の構想を公表(党名決定は2月7日)、翌21日の議会開会時、政友会が内閣不信任決議案を提出する機先を制して、15日間の停会を命じた。そして、政友会や国民党、藩閥、貴族院などの切り崩し工作を行った。 一方、議会停会中に更に護憲運動は過熱した。24日、東京・新富座にて憲政擁護第2回大会が開かれ、会場内に3千人、会場外には2万人に大群衆が詰めかけた。この時点での政治情勢としては、桂はすでに山縣と袂を分かっており、藩閥を抑える手段として政界復帰、新党結成に動いていたのであるが、藩閥内の細かい暗闘を知らない外部は、山縣が子分である桂を宮中に入らせ、西園寺内閣を潰して政界に復帰させ、更には新党結成を行っている、とみなしており、山縣だけでなくその手下である(と思われていた)桂も、攻撃の対象となった。 議会が再開された2月5日、政友会、国民党などの野党は内閣不信任決議案を提出。政友会の尾崎行雄議員の有名な弾劾演説はこの時のものである。 …彼等は常に口を開けば、直ちに忠愛を唱へ、恰も忠君愛国は自分の一手専売の如く唱へておりますが、その為す所を見れば、常に玉座の蔭に隠れて政敵を狙撃するが如き挙動をとっておるのである。彼等は、玉座を以て胸壁と為し、詔勅を以て弾丸に代へて政敵を倒さんとするものではないか。かくの如きことをすればこそ、身既に内府に入って未だ何も為さざるに当りて、既に天下の物情騒然として却々静まらない。… この趣旨説明の演説の後、議会は再度、5日間の停会となり、議会周辺に詰めかけた群衆の間では騒然とした空気になった。
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