拝礼中の祈り
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/02/28 20:54 UTC 版)
伊勢神宮の「参拝の作法(二拝二拍手一拝)」は祈りについて言及しない。伊勢神宮では「ご参拝」とは別に「ご祈祷」がある。「ご祈祷」は、申し込みに応じて神宮が執り行うものであり、「祝詞の奏上をもって皆様の真心とお願いごとを大御神にお届けします」という形式である。伊勢神宮では一般参拝者が二拝二拍手一拝の途中で願い事を念じたとしても、それは「ご祈祷」に当たらない。 神社本庁の「拝礼の作法」も祈りについて言及しない。ただし、神社本庁の示す祈願の方法は伊勢神宮の祈祷とかなり異なる。神社本庁の「玉串拝礼の作法」によると、神社で祈願するときは神に玉串を捧げる。玉串とは新鮮な榊の枝に麻や紙を取り付けたものであり、「私たちは、神前に進み、玉串を通して自らの誠の心を捧げるとともに、神さまのお陰をいただきます」という。また、玉串を捧げる過程の途中で「祈念をこめます」と明記している。動画上は玉串を捧げ終えたあとに続いて二拝二拍手一拝を行っている。 神社本庁の唱える“神社で祈願するときは神に玉串を捧げる”という命題の対偶をとれば、玉串を捧げないときは二拝二拍手一拝の途中で何かを念じても祈願したことにならない。一方で神社本庁は、二拝二拍手一拝に関して「そこに、どう心を込めるか、また込めたほうがよいのかは、参拝される皆さんの心の持ち様ではないでしょうか」とも述べており、玉串を捧げない単なる二拝二拍手一拝に祈願を込めてよいかは参拝者のお気持ち次第に委ねられている。 このほか拝礼中の祈念や祈願に言及しない神社としては、八坂神社、久能山東照宮、愛宕神社、沼津日枝神社、金刀比羅宮などがある。 逆に、二拝二拍手一拝の途中、二拍手の後に祈念や祈願をすることを指導する例は以下の通りである。 祈りを勧めるが祈願(願い事)を明示しない例東京大神宮「両手を合わせ、日頃の感謝と祈りを込めます」。 箱根神社「両手を合わせ祈念します」。 小國神社「お祈りします」(手を合わせる人々の写真つき)。 二宮神社「両手の指先を揃えて、祈りをこめます」。 住吉大社「心を込めて祈ります」(写真では手を合わせている)。 角館総鎮守神明社「両手をきちんと合わせながら心をこめて祈ります」など。 祈願(願い事)を明示する例東京都神社庁「両手をきちんと合わせながら心を込めて祈ります」、「大切なお願い事がある時は手を合わせたまま神様に想いを伝えてもいいでしょう」。 太宰府天満宮「手を合わせたまま、日頃の感謝の気持ちをお伝えするとともに、さまざまなお願い事をお祈りします」 北野天満宮「手を合わせ、心の中で天神さまにご挨拶と感謝をお伝えします。お願いごとのある方はお祈りをいたしましょう」。 福島稲荷神社「両手を合わせ祈願を込める」、 寒川神社「願い事を込めて祈ります」(イラスト上は手を合わせている)など。 祈念の内容に条件を課す例高崎神社 (大阪府) 「手を合わせて普段の暮らしに感謝の祈りをします」。「名前と住所を伝えることを忘れずに」、「我欲や、何の努力もしない自分勝手なお願いごとは×」。「『お願いごと』ではなく、『誓い』を」「努力の上でお伝えすることが大切です」。 以上、祈りを勧める場合はいずれも手を合わせることを指導している。かつて昭和戦前期には、神社参拝で手を合わせることについては批判があった。当時の礼法書では「神社に参拝して手を合わせる人が多いが、手は下におろすのが本当で、手を合わせるのはインド仏教式である。これなどは、この際、断然改めなくてはならぬ」と言われていた。これに従えば、二礼二拍手一礼の途中で手を合わせながら祈ることは難しかった。この当時、社頭参拝での祈願については、たとえば全国神職会『神社読本』は拍手の音に祈願の心も籠められると述べており、拍手をもって祈願を兼ねるという建前であって、手を合わせて祈ることの是非を示していなかった。 戦前の神社は公共施設であり、神社参拝は宗教活動でないとされていたため、そこでの祈りのあり方は公の議論の対象となるものであった。これに対し、現代の神社は民間の宗教法人であり、その信教の自由は憲法によって保障されている。神社における宗教上の祈り方について第三者が「正しい作法というものを指導すること」は憲法の理念に矛盾する。しかし、令和の時代、宗教学者の島田裕巳は第三者の立場から「二礼二拍手一礼では、どうしてもこころを込めて神と相対することにはならない。神社で拍手を打ってはならないのだ」などという指導を自ら試みている。その根拠は以下の通り主観や想像を交えたものである(大意)。 昔の参拝は基本的に合掌であった。その仕草は記録に残りにくいが、昭和初期の映画『姿三四郎』では、神前に座ってひたすら合掌して祈りをささげている娘の姿が描かれている。その姿は美しい。そこに祈りがあるからだ。これに対して、二礼二拍手一礼はもともと神職が玉串を捧げる際の作法である。一般人も玉串を捧げた後に二礼二拍手一礼を行うが、通常の参拝において二礼二拍手一礼を行うとき、そこには祈念が欠けている。この欠点について神社本庁が十分に検討してきたとは思えない。単に正しい作法なるものを指導することで自己の権威を示そうとしてきただけではないか。二礼二拍手一礼では心を込めて神と向かい合うことができない。神社で拍手を打ってはならない。
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