戦後・関西映興から松竹直営館へ
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「岸和田電気館」の記事における「戦後・関西映興から松竹直営館へ」の解説
戦後はいち早く復興しており、1950年(昭和25年)に発行された『映画年鑑 1950』には、同市内の欄に、東宝・大映の二番館である春陽館(春木泉町1560番地、経営・夜明藤一)、東宝の三番館と洋画を上映した山村劇場(北町74番地、経営・河合栄)、大映の三番館である岸和田館(堺町1919番地、経営・山口藤次郎)、セントラル映画社系の岸和田セントラル(のちの岸和田東宝セントラル劇場、宮本町125番地、経営・山口藤次郎)、東宝の三番館でありヨーロッパ映画も上映した岸和田東宝劇場(岸和田東宝映画劇場、本町219番地、経営・映宝興行および中平邦顕)、そして同館の6館が記載されている。同書によれば、当時の同館の経営者として岩崎治良(1900年 - 没年不詳)のみの名が記されており、観客定員数は400名、興行系統は松竹の二番館であった。岩崎治良は、松竹キネマ出身で、戦時中は社団法人映画配給社にあって関西支社次長、中部支社長と営業畑の重職を歴任し、戦後は、1947年(昭和22年)に梅田シネマを設立して社長に就任したが、2年後にオーエス映画劇場(現在のオーエス)に買収されたため、関西映興を新たに設立した人物であった。同館は岩崎が代表を務める関西映興が経営した。したがって同館は泉谷虎吉の手を離れており、堺の電気館も本山敬二郎の経営に移り、両館の間に資本関係はなくなっていたが、同館は「第二電気館」と名乗り続けた。1950年代前半に、木造二階建から、鉄筋コンクリート二階建に建物を建て替えている。 1957年(昭和32年)4月24日には、鍛治屋町の繁華街に岸和田大映(のちに移転して岸和田大劇、経営・同和興行)が開館し、大映二番館として興行を開始している。これによって、山直劇場(岡山町127番地、経営・西川輝男)、吉野倶楽部(下野町517番地、経営・山路美晴)、同年に岸和田東映劇場と改称した山村劇場を含め、同市内の映画館は合計9館の時代を迎える。1959年(昭和34年)には、同市内の岸和田東宝映画劇場の経営が変わって洋画系の映画館になり、岸和田東洋劇場と改称しているが、このとき、同館が東宝系の興行を引き継ぎ、松竹系と並行して上映した。 1961年(昭和36年)には、堺電気館が閉館したが、同館の名称は「第二」を冠したままであった。岸和田市内では、堺電気館と同じ1961年には山直劇場が閉館し、1962年(昭和37年)には春陽館(春木泉町1560番地、経営・向井克巳)、吉野倶楽部(下野町517番地、経営・楠原エイ)、岸和田東宝映画劇場(経営・照屋潔)の4館が閉館、同市内の映画館はわずか5館に減った。 1966年(昭和41年)には岸和田セントラル劇場が岸和田東宝セントラル劇場と改称、東宝の封切館となったため、同館は東宝系から離れ、松竹および洋画の上映館となった。1967年(昭和42年)1月には従来同館を経営していた関西映興が松竹関西興行(1958年設立 - 2002年解散、代表・城戸四郎)と契約を結び、松竹の直営館になるとともに、岸和田電気館と改称した。同名称は、開館以来、他地区の「電気館」と区別するためにしばしば使用された通称であった。同年の松竹は、3月25日公開の『宇宙大怪獣ギララ』(監督二本松嘉瑞)、4月15日公開の『若社長大奮戦』(監督梅津明治郎)、6月5日公開の『智恵子抄』(監督中村登)、8月5日公開の『喜劇一発勝負』(監督山田洋次)、9月2日公開の『無理心中日本の夏』(監督大島渚、製作創造社)等を製作・配給している。『松竹九十年史』および『松竹百十年史』には、このとき松竹関西興行傘下となった映画館として「岸和田松竹」が筆頭に挙げられているが、該当する映画館は同時代の資料には同館以外には存在しない。 1974年(昭和49年)には閉館し、約60年もの歴史を閉じた。翌1975年(昭和50年)には岸和田東宝セントラル劇場も閉館しており、同市内の映画館は、薩準次郎が経営する岸和田東映劇場(北町12番地12号)のほか、同和商事(代表・浅原隆三)が経営する岸和田大劇(大北町52番地1号)、岸和田日活劇場(のちの岸和田日劇、北町8番地5号)および岸和田スカラ座(北町8番地5号)の合計4館だけが残った。Google ストリートビューによれば、2009年(平成21年)7月現在の同館跡地は駐車場である。
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