戦後、黒澤映画での活躍
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/06 01:49 UTC 版)
1943年、黒澤明の第1回監督作品『姿三四郎』で老柔術家・村井半助を演じて以来、黒澤作品には欠かせない存在として、21本の黒澤作品に出演した。 黒澤の最初期の作品では脇役を演じたが、1948年(昭和23年)の『醉いどれ天使』で主演に抜擢され、酔いどれ医者役を好演した。続いて1949年(昭和24年)には、『野良犬』で三船敏郎と組むベテラン刑事役を、『静かなる決闘』で三船の父親役を演じ、この二つの演技で毎日映画コンクール男優演技賞を受賞する。 『醉いどれ天使』以降の作品では三船とのダブル主演の作品がほとんどだが、1952年(昭和27年)の『生きる』ではワンマン扱いで主演した。癌に侵された市役所員を頬骨が見えるほど減量して好演、NYタイムズに「世界一の名優」と絶賛され、黒澤にとっても志村にとっても一世一代の作品となった。1954年(昭和29年)の『七人の侍』では侍達のリーダー勘兵衛役で、お荷物的存在・菊千代を演じる三船と対照を成すダブル主演。それまでの性格俳優的なイメージを一新する沈着豪胆なヒーロー像を打ち立て、『生きる』と並び生涯の代表作とした。 『生きものの記録』を最後に加齢のため主役級を降板。以後は脇役として黒澤作品への出演を続け、癖の強い悪役なども演じた。最後の黒澤映画は『影武者』である。1961年(昭和36年)には黒澤の代理としてベルリン映画祭に出席、多くの欧米の映画人から祝辞を述べられる。 黒澤作品以外では、『ゴジラ』の山根博士役をはじめとして、主に重厚な科学者役を演じ東宝の怪獣映画・特撮映画に多く出演した。また、天知俊一監督がモデルとされる初老のプロ野球監督を演じた『男ありて』(1955年)は黒澤作品でも特撮映画でもない志村の代表作として挙げられる。本作は映画化が危ぶまれていると聞いた志村自身が、映画化実現まで原作を守ろうとするほどの熱の入れようであった。映画化したのちもテレビドラマ化され、志村は映画とテレビでこの主役を演じた。 山田洋次監督の『男はつらいよ』の「博の父親」役でも知られ、岡本喜八監督の『日本のいちばん長い日』や熊井啓監督の『黒部の太陽』など名匠の作品でも好演した。
※この「戦後、黒澤映画での活躍」の解説は、「志村喬」の解説の一部です。
「戦後、黒澤映画での活躍」を含む「志村喬」の記事については、「志村喬」の概要を参照ください。
- 戦後、黒澤映画での活躍のページへのリンク