戦後、西ドイツ時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/15 04:34 UTC 版)
「ボーフム/ゲルゼンキルヒェン市電」の記事における「戦後、西ドイツ時代」の解説
戦争の被害からの復旧は終戦後の1946年から始まったが、物資や電力が不足し、車両も50 %以上が走行不能な状態の中での作業は困難を極め、蒸気機関車を改造し電気ボイラーを備えた電気式蒸気機関車が1951年まで使用される程だった。それでも1949年には戦前の路線網がほぼ復旧し、車両も159両の電動車・84両の付随車が使用可能となっていた。1950年時点の年間利用者数は、路線バスと合わせて1億900万人に達した。 その後、1950年代は炭鉱や製鉄所の盛業による都市の発展に支えられ、路面電車を始めとする公共交通網の需要は増加の一途を辿った。それに応えるため、車庫の増設に加えて車両の増備・大型化も進み、1953年にはデュッセルドルフ車両製造(→デュワグ)が製造した初の大型ボギー車が導入された他、1955年からは自社で従来の2軸車を改造した3車体連接車が作られるようになり、翌1956年からは新造車両となる2車体連接車が営業運転に投入された。BOGESTRAにおける最大利用客数を記録したのは1959年の1億7,000万人で、路線バスと合わせた営業キロは535 kmに達していた。 だが、その一方で公共交通網の運営コストは増大し、運賃の値上げや信用乗車方式の導入による車掌業務の廃止など様々な対策が実施された。それでも1965年までBOGESTRAは安定した業績を維持していたが、翌1966年以降は利用客の減少が顕著となり、年間の決算も赤字を記録するようになった。そして1972年にはヴェストファーレン路面電車会社から継承した路線であった12号線が廃止された。ただし1974年に開催されたFIFAワールドカップに合わせて車両の増備が行われた他、ルール大学ボーフムに伴う路線経路の変更も実施された。 ボーフム/ゲルゼンキルヒェン市電における1970年代以降の最大の変化は、路面電車路線を地下に移し高規格化・高速化を図ったシュタットバーン(ボーフム・シュタットバーン)の登場であった。最初の地下区間は1970年から建設が始まり、1979年5月26日に最初の路線が開通した。これに先立ち、1976年にはシュタットバーンに対応した新型電車・M6S・M6Cの導入も実施された。その後、シュタットバーン路線は拡張を続け、1981年、1984年にも新たな路線が開通している。 運営面については、1980年以降路面電車やシュタットバーンを含むBOGESTRAの路線網はライン=ルール運輸連合に組み込まれており、同運輸連合に参加する他の事業者が運営する公共交通との乗り継ぎが可能となっている。 ボギー車や連接車に置き換えられた2軸車の一部は動態保存が行われている(2011年撮影) 1956年から導入された連接車(デュワグカー)(1986年撮影) シュタットバーン化に合わせて導入されたM6S(1981年撮影)
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