戦後 ~総評初代事務局長として~
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「高野実」の記事における「戦後 ~総評初代事務局長として~」の解説
戦後は1946年全国金属産業労働組合同盟(全国金属)主事となり、また日本労働組合総同盟(総同盟)結成にも参加する。1948年総同盟総主事に当選すると、細谷松太らが展開していた、共産党系の全日本産業別労働組合会議(産別会議)における「民主化同盟」運動を支援、その後身の全国産業別労働組合連合(新産別)と合同し、1950年総評を結成する。 総評はもともと、反共的労働組合のナショナルセンターを作ろうとしたGHQの意向に沿う形で発足したが、翌1951年高野が初代事務局長に当選すると、(1) 全面講和 (2) 中立堅持 (3) 軍事基地反対 (4) 再軍備反対の「平和4原則」を採択し、「ニワトリがアヒルになった」と驚かれるほど左旋回させていった。高野は総評を対米従属下にある「民族の苦悩の担い手」と位置づけ、政治面では左派社会党(以下「左社」と略す)の躍進を助けながら、破壊活動防止法反対闘争(1952年)や内灘基地反対闘争(1952~1953年)などに主導的な役割を果たす。高野総評の言葉が生まれるほど、その指導力で総評に君臨していた。
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