戦後・移転と再開とは? わかりやすく解説

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戦後・移転と再開

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/19 02:17 UTC 版)

堺電気館」の記事における「戦後・移転と再開」の解説

市中心部空襲爪痕深かったが、1949年昭和24年前後には、南海電気鉄道高野線堺東駅西口三国御幸通19番地(現在の堺区三国ヶ丘御幸通19番地)に木造二階建映画館新築、この地で営業再開した。この新しい場所での電気館経営は、戦前泉谷虎吉代って本山二郎が行い、支配人には新田安信就任した一方戦前同一経営であった岸和田市第二電気館のほうも、関西映興を経営する岩崎治良(1900年 - 没年不詳)に経営代っており、両館の間に資本関係なくなった。同館の再開館当時の同市内映画館は、戦前東宝映画現在の東宝)の直営であった当時東宝および新東宝二番館であった堺東映画劇場北瓦町87番地経営正木孝之)、そして復興して大映二番館となった太陽館北安井町11番地、経営興亜厚生)、同じく復興して松竹二番館となった菅原館(出口町3番地、経営小猿)、同じく復興して大和川館から改称した邦画混映館の堺劇場七道東之町124番地経営興亞厚生)、と同館を含めて合計5館であった戦時中10館から半減してのスタートであった再開館当初の同館の興行系統は、セントラル映画社(英語: CMPE, セントラル・フィルム・エキスチェンジとも)の独占配給するアメリカ映画であった1951年昭和26年12月27日にはセントラル映画社解体されたため、興行系統輸入映画洋画)の混映館になった1953年昭和28年)には支配人中村忠次郎変わっている1956年昭和31年)に発行された『映画年鑑 1956 別冊 全国映画館総覧によれば支配人が山品巌に変わっており、同市内映画館は同館を含めて14館を数え、わずか5年間で約3倍の数の映画館となったその後興行系統松竹大映東映の混映館となり、同館を経営した本山二郎は、国鉄阪和線現在の西日本旅客鉄道阪和線)の堺市駅西側、北三国丘町8丁295番地金岡劇場観客定員250名)を新たに開館経営したが、本山金岡劇場一本絞り1961年昭和36年)には同館を閉館した同年には、同市内映画館合計27館を数え市内映画館数のピーク迎えたが、金岡劇場閉館する1965年昭和40年)には、17館に激減していた。Google ストリートビューによれば2009年平成21年7月現在の館跡地は、1981年昭和56年)に地域再開発により完成し北側隣接するジョルノ専門店街契約駐車場である。ジョルノビルは再々開発予定されている。

※この「戦後・移転と再開」の解説は、「堺電気館」の解説の一部です。
「戦後・移転と再開」を含む「堺電気館」の記事については、「堺電気館」の概要を参照ください。

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