戦後――戦記の執筆とは? わかりやすく解説

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戦後――戦記の執筆

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/10 01:05 UTC 版)

吉田満」の記事における「戦後――戦記の執筆」の解説

1945年昭和20年8月15日日本の敗戦後米軍による報復処刑されるとの風説による須崎久通須崎湾の突端部落)の住民願いにより、小学校分教場のただ2人教師だった夫婦身重夫人代り教員として一時そこに匿われていた。しかし半月後、上官から呼び出され叱責され吉田は、分教場を去ることになった東京恵比寿にあった吉田留守宅は、前年5月東京大空襲により焼失してしまったが、それ以前吉田一家西多摩郡吉野村現・東京都青梅市)に疎開していた。吉田はすぐにはそこに帰らず、しばらく吉田家先祖に地である富山県に赴き山河眺めてから、9月中旬両親のいる疎開先の吉野村帰還した。 そして、父の疎開仲間であった作家吉川英治宅を訪れ戦場での体験話した吉田は、吉川勧め従い帰宅後すぐに「戦艦大和」での体験記録「戦艦大和ノ最期」を執筆した同作は、自然と文語体となり一日足らず完成した大学ノート鉛筆書かれたその原稿は、棒線矢印などの省略記号多く混ざったもので、吉田はこのノート記述肉付けしながら別の大学ノートペン書き記した。この戦記を少しでも多くの人に読んでもらうため、吉田友人複数にやはりペン書きノート書き写してもらい、これらの写本親し友人たちに回覧された。 同年12月吉田日本銀行入行し、統計局勤務となった翌年1946年昭和21年3月外事勤務となった吉田は、4月1日勤務中に評論家小林秀雄訪問受けた小林は、吉田友人書き写したノート写本)を手にしながら、これは立派に一つ文学になっているとして、いま発刊準備中季刊誌『創元』の第一号にぜひ掲載したい申し出た吉田小林任せることに決め小林指示検閲考慮し一部修正などを施し原稿用紙書き写し発行待っていたが、GHQ下部組織CCD民間検閲支隊)の検閲により全文削除処分となりゲラ刷り没収されてしまうことになった小林CCD抗議文を出し白洲次郎からもGHQとの交渉依頼するなど奔走したが、『創元』に掲載されることなく終ってしまった(その後初刊行まで詳細経緯戦艦大和ノ最期参照)。 白洲次郎夫人白洲正子によると、白洲への依頼時に小林吉田のことを「そりゃもうダイアモンドみたいな眼をした男だ」と語っていたという。

※この「戦後――戦記の執筆」の解説は、「吉田満」の解説の一部です。
「戦後――戦記の執筆」を含む「吉田満」の記事については、「吉田満」の概要を参照ください。

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