戦後――戦記の執筆
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1945年(昭和20年)8月15日の日本の敗戦後、米軍による報復で処刑されるとの風説による須崎の久通村(須崎湾の突端の部落)の住民の願いにより、村の小学校の分教場のただ2人の教師だった夫婦の身重の夫人の代りの教員として一時そこに匿われていた。しかし半月後、上官から呼び出されて叱責された吉田は、村の分教場を去ることになった。 東京恵比寿にあった吉田の留守宅は、前年5月の東京大空襲により焼失してしまったが、それ以前に吉田一家は西多摩郡吉野村(現・東京都青梅市)に疎開していた。吉田はすぐにはそこに帰らず、しばらく吉田家の先祖に地である富山県に赴き山河を眺めてから、9月中旬に両親のいる疎開先の吉野村に帰還した。 そして、父の疎開仲間であった作家・吉川英治宅を訪れ、戦場での体験を話した吉田は、吉川の勧めに従い、帰宅後すぐに「戦艦大和」での体験記録「戦艦大和ノ最期」を執筆した。同作は、自然と文語体となり一日足らずで完成した。 大学ノートに鉛筆で書かれたその原稿は、棒線や矢印などの省略記号が多く混ざったもので、吉田はこのノートの記述に肉付けをしながら、別の大学ノートにペン書きで記した。この戦記を少しでも多くの人に読んでもらうため、吉田は友人ら複数にやはりペン書きでノートに書き写してもらい、これらの写本が親しい友人たちに回覧された。 同年の12月、吉田は日本銀行に入行し、統計局勤務となった。翌年1946年(昭和21年)3月に外事局勤務となった吉田は、4月1日の勤務中に評論家の小林秀雄の訪問を受けた。小林は、吉田の友人が書き写したノート(写本)を手にしながら、これは立派に一つの文学になっているとして、いま発刊準備中の季刊誌『創元』の第一号にぜひ掲載したいと申し出た。 吉田は小林に任せることに決め、小林の指示で検閲を考慮し一部修正などを施し原稿用紙に書き写し、発行を待っていたが、GHQの下部組織CCD(民間検閲支隊)の検閲により全文削除処分となりゲラ刷りが没収されてしまうことになった。小林はCCDに抗議文を出し、白洲次郎からもGHQとの交渉を依頼するなど奔走したが、『創元』に掲載されることなく終ってしまった(その後の初刊行まで詳細経緯は戦艦大和ノ最期を参照)。 白洲次郎の夫人・白洲正子によると、白洲への依頼時に小林は吉田のことを「そりゃもうダイアモンドみたいな眼をした男だ」と語っていたという。
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