戦争の再開と「聖戦」
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/04 03:17 UTC 版)
1883年、イギリス船Nisero号がアチェで座礁した。この地域は未だオランダの支配があまり及んでおらず、地元のスルターンはイギリスとオランダの双方に船員の身代金を要求した。イギリスの圧力を受けたオランダは、イギリス人救出のために対応せざるを得なくなった。まず地元のゲリラ指導者だったトゥク・ウマールに支援を求めたが断られ、逆にオランダ兵を殺害されたので、オランダはイギリスと合同してこの地域に侵攻した。結局スルターンは人質を解放し、代わりに莫大な身代金を受け取った。 オランダ戦争相アウグスト・ウィレム・フィリップ・ヴェイツェルはアチェ戦争の再開を宣言したが、以前と同様にオランダの戦果は限定的だった。軍事技術で劣るアチェ軍はゲリラ戦を展開し、罠や奇襲を駆使してオランダ軍を悩ませた。報復としてオランダ軍は陥れた村々を一掃し、多くの捕虜や一般人を殺害した。1884年、オランダ軍はバンダアチェ周辺の要塞線範囲内に撤退した。またオランダはアチェの首長たちの取り込みにも躍起になった。トゥク・ウマールは1883年に金、アヘン、武器などで買収され、大指揮官(panglima prang besar)の称号を与えられた。 トゥク・ウマールは自らを「英雄ヨハン」(Teuku Djohan Pahlawan)と名乗った。さらに彼は1894年1月1日に私軍創設のための支援まで受けた。しかし2年後の1896年、トゥク・ウマールはアチェ平定に使うはずだった新部隊でオランダ軍を襲い、膨大な物資と資金を奪って逃走した。これはオランダ史上「トゥク・ウマールの反逆」(Het verraad van Teukoe Oemar)として知られる大事件であった。1880年代半ばから、アチェ軍の指導権はトゥンク・チ・ディ・ティロらイスラム教の宗教指導者(ウラマー) が握るようになった。彼らは説教や文書で、対オランダ戦争は「聖戦」であると宣伝した。アチェの戦士たちは、自らは異教徒の侵略者と戦う殉教者であると捉えた。この時点でアチェ戦争は、西洋の帝国主義に抗う世界中のムスリム抵抗運動の象徴となった。 1892年から1893年にかけて、オランダが様々な対策を仕掛けてきたが、アチェは独立を保つことができた。植民地軍のヨハネス・ベネディクトゥス・ファン・ヒューツ少佐は、ライデン大学のイスラーム研究の大家クリスティアン・スヌック・フルフローニェの援けを得てアチェに関する数々の論説を著した。フルフローニェは数々のアチェの有力者と接触し、ハッジ巡礼者についての情報を得てオランダ政府に流す諜報活動に携わっていた。彼の活動は、長年にわたり秘されていた。彼はアチェ社会を分析して、スルターンの役割はそこまで大きくないと述べ、むしろ世襲の首長・領主であるウレーバランに注意を払うべきだと主張した。フルフローニェは、ウレーバランはオランダの傘下に入っても地方の統治者として信頼できるが、宗教指導者であるウラマーは信用も共闘もできないので滅ぼすべきであると主張した。フルフローニェは、分割統治の原理にのっとりアチェの貴族と宗教指導者の間の溝を深めさせるようオランダ政府に促していたり、友人でバタヴィアのアラブ人大ムフティーでもあるハビブ・ウスマーン・ビン・ヤフヤーに働きかけ、オランダ側に有利なファトワーを出させている。 また、1894年に宗務官(penghulu)のハサン・ムスタファが出したファトワも、オランダ側に有利に働いた。これは、ムスリムにオランダ植民地政府の統治を受け入れるよう諭すものであった。19世紀のインドのイスラム思想家サイイド・アフマド・ハーンは、「ジハード(聖戦)」という言葉は明らかな宗教的抑圧への抵抗運動であるとして、アチェの対オランダ戦争についてジハードを取り下げることを提唱している。
※この「戦争の再開と「聖戦」」の解説は、「アチェ戦争」の解説の一部です。
「戦争の再開と「聖戦」」を含む「アチェ戦争」の記事については、「アチェ戦争」の概要を参照ください。
- 戦争の再開と「聖戦」のページへのリンク