戦争の勃発と前半戦におけるイギリスの勝利
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/04/18 10:27 UTC 版)
「第二次マラーター戦争」の記事における「戦争の勃発と前半戦におけるイギリスの勝利」の解説
同年8月8日、イギリスの軍司令官アーサー・ウェルズリーがシンディア家のアフマドナガル城を包囲・攻撃し、4日後にこれを占領した(アフマドナガル包囲戦)。こうして、マラーター同盟とイギリスが交戦状態に入り、第二次マラーター戦争が勃発した。 9月1日、イギリスの軍司令官ジェラルド・レイクはシンディア家の支配するアリーガルを攻め、4日にこれを落として占領した(アリーガル包囲戦)。これが緒戦におけるイギリスの勝利であった。 同月11日、イギリスはシンディア家が駐屯するムガル帝国の首都デリーを攻撃、圧勝してこれを奪い返した(デリーの戦い)。これにより、ムガル帝国の皇帝シャー・アーラム2世は再びイギリスの保護下におかれ、年金生活者となった。 同月23日、イギリスはシンディア家とボーンスレー家の連合軍とアッサイェで激突し、激戦の末にこれを破った(アッサイェの戦い)。この戦いでシンディア家とボーンスレー家の連合軍ともに甚大な損害を被った。 11月1日、イギリスはシンディア家とボーンスレー家の連合軍とラスワリーで激突し、激戦の末にこれを破った(ラスワリーの戦い)。この戦闘でシンディア家の軍は甚大な打撃を被った。 11月29日、イギリスはシンディア家とボーンスレー家の連合軍とアルガーオンで戦い、激戦の末にこれを破った(アルガーオンの戦い)。この戦闘でボーンスレー家の軍は甚大な打撃を被った。 12月15日、イギリスはボーンスレー家の拠点ガーウィルガルを占領した(ガーウィルガル占領)。この時点でボーンスレー家とシンディア家はほとんど戦意を失っていた。 12月17日、ラグージー・ボーンスレー2世はイギリスと講和条約デーオガーオン条約を結んで、真っ先に戦線を離脱した。同月30日にはダウラト・ラーオも講和条約スールジー・アンジャンガーオン条約を結び戦線を離脱し、ヤシュワント・ラーオは孤立した。
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