得宗被官・御家人説とは? わかりやすく解説

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得宗被官・御家人説

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/12 04:59 UTC 版)

楠木正成」の記事における「得宗被官・御家人説」の解説

得能弘一楠木氏駿河国出身説を提唱し(「楠木正成出自に関する一考察」『神道学128)、筧雅博新井孝重楠木氏出自駿河国とした。かつてはこの説が定説とされていた。筧雅博はその理由として、以下を挙げている。 楠木正成地元である河内金剛山西麓から観心寺一帯に「楠木」の字(あざ)はない。 鎌倉幕府正応6年1293年7月駿河国荘園入江荘のうち長崎郷の一部楠木鶴岡八幡宮寄進したと言う記録があり、楠木北条得宗被官楠木氏居住した想定できる観心寺荘の地頭だった安達氏は、弘安8年1285年)に入江荘と深い関係にある鎌倉幕府の有力御家人長崎氏霜月騒動滅ぼされ、同荘は得宗家に組み込まれとみられるそれゆえ出自長崎氏同郷楠木氏観心寺荘に移ったではないか想定できる。 『鎌倉将軍家譜によれば元享2年1322年)には、北条高時の命を受けた正成が摂津国淀川河口に居を据え渡辺党討ち次いで紀伊国安田庄司殺し、さらに南大和の越智氏撃滅したという。この際安田庄司旧領は正成に与えられた(ただし、史料正確性後述のようにかなり低い)。 楠木正成攻め鎌倉幕府大軍京都埋めた元弘3年正慶2年1333年)閏2月公家二条道平日記である『後光明照院関白記』(『道平公記』)に くすの木の ねはかまくらに成ものを をきりにと 何の出るらん という落首記録されている、この落首は「楠木氏出身鎌倉東国得宗家)にあるのに、(正成)を切りになぜ出かけるのか」という意とされ、河内出軍する幕府軍嘲笑したものとされる網野善彦は、楠木氏はもともと武蔵国御家人北条氏被官御内人)で、霜月騒動安達氏支配下にあった河内国観心寺得宗領となり、得宗被官楠木氏代官として河内移った推定した。正成は幼少時観心寺仏典学んだと伝わる。 また『吾妻鏡』には、楠木氏玉井、忍(おし)、岡部滝瀬武蔵猪俣党とならぶ将軍随兵記されている。ただし、この楠木氏が正成と同族であるとする根拠は無い。 森田康之助は、弘安8年1285年1月29日付の常陸国国府での下文に「(常陸国司左近太夫将監朝臣」とあり、『兵衛楠木氏系図』には正成の父・正康は左近太夫であると記されているため、何かしら関係がある可能性示した。 しかし、林羅山の『京都将軍家譜』『鎌倉将軍家譜』、浅井了意の『本朝将軍記』、馬場信意の『南朝太平記』、『高野春秋編年輯録』、『紀伊続風土記』など、楠木氏得宗被官説の根拠として使われるものの大半は『太平記評判秘伝理尽鈔』の影響下にあり、その信憑性には疑問が残るまた、河内国石川郡太子町に「楠木」の小字があることが堀内明によって発見されたため、駿河国出身であるという説も成立しない可能性がある。

※この「得宗被官・御家人説」の解説は、「楠木正成」の解説の一部です。
「得宗被官・御家人説」を含む「楠木正成」の記事については、「楠木正成」の概要を参照ください。

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