得宗専制の全盛と衰退
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平頼綱は、時宗を継いだ年少の北条貞時を補佐し、得宗専制の強化に尽力した。元寇防衛に働いた九州御家人の恩賞・訴訟を判定するため、安達泰盛は九州に合議制の奉行(鎮西談議所)を置いていたが、頼綱はそれに代えて、得宗派で固めた新機関(鎮西探題)を設置した。頼綱政権は、この機関を通じて西国の荘園・公領への支配を強めていった。その反面、さらなる元寇の可能性を根拠として、御家人らへの恩賞給与は僅かにとどまった。正応6年(1293年)、成人した北条貞時は、平頼綱一族を討滅した(平禅門の乱)。貞時は、政治の実権を内管領から取り戻し、実質的な得宗専制を一層強化していった。まず、頼綱政権下で停滞していた訴訟の迅速な処理のため、合議制の引付衆を廃止し、判決を全て貞時が下すこととした。当初、御家人らは訴訟の進行を歓迎したが、ほどなく独裁的な判決への反発が高まった。そして、永仁5年(1297年)、大彗星が現れると世相に不安が拡がり、当時の徳政観念に従って、貞時は、財物を元の持ち主へ無償で帰属させる永仁の徳政令を発布した。この徳政令は、当時、普及しつつあった貨幣経済に深刻な影響を与えるとともに、社会に大きな動揺をもたらした。 その後、執権職は貞時に代わって北条氏支流の4人が次々に受け継いだが、貞時は得宗として幕府を実質的に支配し続けた。貞時の時代には、北条一門の知行国が著しく増加した。その一方、一般の御家人層では、異国警固番役や長門警固番役などの新たな負担を抱えるとともに、貨幣経済の普及に十分対応しきれず、分割相続による所領の細分化などもあり、急速に階層分化が進んでいった。中には所領を増加させる御家人もいたが、没落傾向にある御家人も少なくなく、所領を売却したり、質入するなどして失い、幕府への勤仕ができない無足御家人も増加していった。一方で彼らから所領を買収・取得する事でのし上がる者もおり、その中には非御家人も数多く含まれる。こうした無足御家人と、力をつけた非御家人は、悪党化し、社会変動を一層進展させた。そのような中で嘉元3年(1305年)、貞時は北条氏庶家の重臣である連署・北条時村を誅殺し、得宗家の権力をさらに強化しようと図ったが北条氏一門の抵抗を受けて失敗(嘉元の乱)した。乱の後貞時は酒浸りとなって政務を放棄し、北条庶家や御内人らによる寄合衆が幕府を主導し、得宗の地位も将軍同様の形式的なものとなっていった。 応長元年10月26日(1311年12月6日)、貞時が死去すると、子の北条高時が北条得宗家の跡を継いだ。貞時の遺言により、9歳の高時の補佐役に、平頼綱の一族の長崎高綱(長崎円喜)と、安達一族の生き残りの安達時顕が就いた(『保暦間記』)。正和5年(1316年)7月、高時は14歳で執権となり、前年から連署となっていた金沢貞顕がその補佐に就いた。 軍記物『太平記』(1370年頃)の語る物語では、北条高時は政治を顧みず闘犬や田楽などの遊びにふける暴君であり、その側近も無能で腐敗しており、相次ぐ暴動を強権的な支配で抑え込んだために幕府は急速に権威・権力を失墜して滅びた展開が描かれる。しかし、『増鏡』や『保暦間記』といった他の文献、および北条氏の私設図書館である金沢文庫に残る史料などから、『太平記』の表現は大幅な誇張であることが明かにされている。
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