得宗専制の全盛と衰退とは? わかりやすく解説

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得宗専制の全盛と衰退

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/16 18:30 UTC 版)

鎌倉幕府」の記事における「得宗専制の全盛と衰退」の解説

平頼綱は、時宗継いだ年少北条貞時補佐し得宗専制強化尽力した元寇防衛働いた九州御家人恩賞訴訟判定するため、安達泰盛九州合議制奉行鎮西談議所)を置いていたが、頼綱はそれに代えて得宗派で固めた新機関(鎮西探題)を設置した。頼綱政権は、この機関通じて西国荘園公領への支配強めていった。その反面さらなる元寇可能性根拠として、御家人らへの恩賞給与僅かにとどまった正応6年1293年)、成人した北条貞時は、平頼綱一族討滅した(平禅門の乱)。貞時は、政治実権内管領から取り戻し実質的な得宗専制を一層強化していった。まず、頼綱政権下で停滞していた訴訟迅速な処理のため、合議制引付衆廃止し判決全て貞時が下すこととした。当初御家人らは訴訟進行歓迎したが、ほどなく独裁的な判決への反発高まった。そして、永仁5年1297年)、大彗星現れる世相に不安が拡がり当時徳政観念に従って、貞時は、財物を元の持ち主無償帰属させる永仁の徳政令発布した。この徳政令は、当時普及しつつあった貨幣経済深刻な影響与えとともに社会大きな動揺もたらしたその後執権職は貞時に代わって北条氏支流の4人が次々受け継いだが、貞時は得宗として幕府実質的に支配し続けた。貞時の時代には、北条一門知行国著しく増加した。その一方一般御家人層では、異国警固番役長門警固番役などの新たな負担抱えとともに貨幣経済普及に十分対応しきれず、分割相続による所領細分化などもあり、急速に階層分化進んでいった。中には所領増加させる御家人もいたが、没落傾向にある御家人少なくなく、所領売却したり、質入するなどして失い幕府への勤仕できない無足御家人増加していった。一方で彼らから所領買収取得する事でのし上がる者もおり、その中には非御家人数多く含まれるこうした無足御家人と、力をつけた非御家人は、悪党化し社会変動を一層進展させた。そのような中で嘉元3年1305年)、貞時は北条氏庶家重臣である連署北条時村誅殺し、得宗家の権力をさらに強化しよう図った北条氏一門抵抗受けて失敗嘉元の乱)した。乱の後貞時は酒浸りとなって政務放棄し北条庶家御内人らによる寄合衆幕府主導し得宗地位将軍同様の形式的なものとなっていった。 応長元年10月26日1311年12月6日)、貞時が死去すると、子の北条高時北条得宗家の跡を継いだ。貞時の遺言により、9歳高時補佐役に、平頼綱一族の長高綱長崎円喜)と、安達一族生き残り安達時顕就いた『保暦間記』)。正和5年1316年7月高時14歳執権となり、前年から連署となっていた金沢貞顕がその補佐就いた軍記物『太平記』1370年頃)の語る物語では、北条高時政治顧みず闘犬田楽などの遊びにふける暴君であり、その側近無能腐敗しており、相次ぐ暴動強権的支配抑え込んだために幕府急速に権威権力失墜し滅びた展開が描かれる。しかし、『増鏡』や『保暦間記』といった他の文献、および北条氏私設図書館である金沢文庫に残る史料などから、『太平記』表現大幅な誇張であることが明かにされている。

※この「得宗専制の全盛と衰退」の解説は、「鎌倉幕府」の解説の一部です。
「得宗専制の全盛と衰退」を含む「鎌倉幕府」の記事については、「鎌倉幕府」の概要を参照ください。

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