得宗専制と御内人の擡頭
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/03 03:43 UTC 版)
頼綱は北条貞時を擁して専制を行うが、平禅門の乱で貞時に滅ぼされる。貞時は自ら政務に勤しむことで得宗専制体制は強化されるが、元寇以後には元寇の戦功に応じた恩賞を受けられず没落する御家人が増加し、執権の地位は有名無実化して、諸国では悪党の活動が活発化する。 また幕府内部では権力を強めようとする得宗と北条氏庶家の対立が激しくなり、嘉元の乱で北条氏庶家の勢力を除くことに失敗した貞時は乱後酒宴に明け暮れて政務を放棄したため、幕府の主導権は北条氏庶家や長崎氏などの御内人等からなる寄合衆に移り、得宗は将軍同様に装飾的存在に祭り上げられ、得宗専制体制は崩壊に向かう。 さらに北条高時の時代になると、幕府は内管領長崎円喜・外戚の安達時顕などの寄合によって「形の如く子細なく」(先例に従い形式通りに)運営されるようになっており、高時が主導権を発揮することを求められなかった。北条氏一門を初めとする寄合衆などの一部の御家人が政治・経済的の地位を独占していたことに御家人の不満が高まり、畿内では悪党の活動が高まっていたが、先例主義・形式主義に陥っていた幕府はこれに対処できなかった。高時は1331年に長崎親子の排除を画策する(元弘の騒動)が失敗し、結局高時が得宗として政治的な主導権を発揮することもないまま、1333年に御家人の足利高氏や新田義貞らによって幕府が倒され、高時は自害し、得宗家も滅亡した。 その後、高時の次男の北条時行が南北朝の戦乱の中で捕らえられて処刑されたために、嫡流は断絶した。
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