得宗家による権力独占
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1246年、経時がまだ幼いわが子を遺して没した際、弟・時頼の得宗家家督、執権職就任は就任寄合で決定している。時頼は前将軍藤原頼経を鎌倉から追放、与同する有力御家人を排除し、執権として確固とした権威を築く(宮騒動)。また宝治合戦で有力御家人の三浦氏を滅ぼし、摂家将軍で反得宗勢力の支持を集めていた5代将軍藤原頼嗣を廃立し、1252年、新たに宗尊親王を6代将軍に迎えた(宮将軍または皇族将軍)。自らは病のため執権職を退くが、嫡子時宗が幼少だったため、極楽寺流の北条長時に執権を譲る。だが、実権は変わらず時頼にあり、長時は時宗へ繋ぐための傀儡に過ぎなかった。ここから得宗と執権の乖離が始まる。 時頼の死後、時宗は外戚の安達泰盛や御内人らに補佐され、2度にわたる元寇に対処する。1度目の文永の役の際、日本軍は元軍の集団戦法に苦戦した経験から、2度目の弘安の役では作戦指令が時宗の名で出され、得宗被官が戦場に派遣されて御家人の指揮にあたった。これにより、得宗の発言力が強まるという結果をもたらした。特に二月騒動以降、将軍の専権事項である「御恩沙汰(将軍が御家人に恩賞として所領を与える行為)」と「官途沙汰(将軍が御家人の官位官職を王朝に推挙する行為)」を得宗が掌握した事は、その権力を決定的なものにした。これは御家人の第一人者に過ぎない北条氏が、御家人の主君たる将軍の権力代行者になった事を意味する。 時宗の死後、幼少の執権かつ得宗である貞時に代わって実権を握ったのは、北条氏の外戚で、御家人層の支持を持つ安達泰盛で、幕政を主導して弘安徳政を開始する。しかし北条氏の私的家臣である御内人の代表である内管領の平頼綱と対立し、霜月騒動で滅ぼされる。これ以降、得宗が実際の権力を行使できない場合は、代わって内管領が主導する体制となった。
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