得宗家による権力独占とは? わかりやすく解説

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得宗家による権力独占

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/03 03:43 UTC 版)

得宗」の記事における「得宗家による権力独占」の解説

1246年経時がまだ幼いわが子を遺して没した際、弟・時頼の得宗家家督、執権就任就任寄合決定している。時頼は前将軍藤原頼経鎌倉から追放与同する有力御家人排除し執権として確固とした権威を築く(宮騒動)。また宝治合戦で有力御家人三浦氏滅ぼし摂家将軍で反得宗勢力支持集めていた5代将軍藤原頼嗣廃立し、1252年新たに宗尊親王6代将軍迎えた宮将軍または皇族将軍)。自らは病のため執権職を退くが、嫡子時宗幼少だったため、極楽寺流北条長時執権を譲る。だが、実権変わらず時頼にあり、長時時宗へ繋ぐための傀儡に過ぎなかった。ここから得宗執権乖離が始まる。 時頼の死後時宗外戚安達泰盛御内人らに補佐され、2度にわたる元寇対処する1度目文永の役の際、日本軍は元軍の集団戦法に苦戦した経験から、2度目弘安の役では作戦指令時宗の名で出され得宗被官戦場派遣され御家人指揮あたった。これにより、得宗発言力が強まるという結果もたらした。特に二月騒動以降将軍専権事項である「御恩沙汰将軍御家人恩賞として所領与え行為)」と「官途沙汰将軍御家人官位官職王朝推挙する行為)」を得宗掌握した事は、その権力決定的なものにした。これは御家人第一人者に過ぎない北条氏が、御家人主君たる将軍権力代行者になった事を意味する時宗死後幼少執権かつ得宗である貞時に代わって実権握ったのは、北条氏外戚で、御家人層の支持を持つ安達泰盛で、幕政主導して弘安徳政開始する。しかし北条氏私的家臣である御内人の代表である内管領平頼綱対立し霜月騒動滅ぼされる。これ以降得宗実際権力行使できない場合は、代わって内管領主導する体制となった

※この「得宗家による権力独占」の解説は、「得宗」の解説の一部です。
「得宗家による権力独占」を含む「得宗」の記事については、「得宗」の概要を参照ください。

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