形成期から、芸としての成立へ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/07 22:47 UTC 版)
「浪曲」の記事における「形成期から、芸としての成立へ」の解説
浪曲は、いずれも願人が多く演じていた、「ちょぼくれ=ちょんがれ」(阿呆陀羅経)を基礎にデロレン祭文(貝祭文)など近接する門付諸芸が徐々に合流し、同じく源流を共にする説経節の影響を受け、大道芸として始まった。幕末期、特に大坂では、さらに講談などの影響から複雑な語り物を扱う「ちょんがれ節」に転化した。成立に先行する文化・文政年間、大坂など上方の浪花伊助(なにわ いすけ)が、阿波浄瑠璃、祭文、春駒節、ほめら等を取り入れて「浮連節(うかれぶし)」と名付け、新しく売り出した芸を源流とするが、伝説である。後述する雲右衛門が「浪花節」の名で関西で口演した後、明治36年以降も大阪の芸人は「浮れ節」で登録があった。大阪でも「浪花節」になるのは大正12年である。大阪から西の地方では「浮かれ節」という呼び方が主であった。中村幸彦の研究により、大阪の浮かれ節は明治4年より前には寄席出演を果たしている事が判明している。横浜・本牧のヒラキで祭文を語って活躍していた青木勝之助(後に美弘舎東一。玉川派の祖)が、寄席進出の運動に私費を全て投じ、東京・四谷の寄席「山本亭」に出演したことを嚆矢とする。浪花節は差別され、組合結成後も寄席への出演は容易にはかなわず、相変わらず浅草・奥山、両国広小路や上野山下、神田筋違、秋葉っ原、八丁堀三角、銀座采女が原、桜田久保町の原、下谷佐竹っ原、本所津軽っ原といった盛り場のヒラキがその中心であった。東京における浪花節の成立・同業組合の結成・寄席出演の時期は諸説ありはっきりせず、明治12年までには遊芸人の鑑札を得ていたようである。また「浪花節」と称したグループだけでなく、周辺芸能と推定されている「歌祭文節」「都節(一中節ではない)」「七色節」などが、それぞれに盛り場のヒラキで活動し、勢力を維持していた。唯二郎『実録浪曲史』によれば、1882年(明治15年)(当時の浪花節組合頭取は芝新網の藤本清助と芝浜松町の春日井善太郎の2名)から1888年(21年)に至るまで「浪花節」より「七色節」の芸人の数が大きく上回っていた。それが、1891年(明治24年)を境として情勢は一変し、「七色節」の人数は激減する。「都節」「歌祭文節」も減少し、「浪花節」だけが微減にとどまった。なお、当時の浪花節は芝新網、七色節は浅草、神田に多く、また、七色節は浪花節と大差はなく、あわせて越後の五色軍談との関連性が指摘されている。この頃、春日井から組合頭取を引き継いだ浪花亭駒吉は、講釈の昼席に通い演題を仕入れ、また説経節の日暮龍卜に節調を習うことで、相三味線の戸川てるとともに、浪花節という芸の向上に努め、後に「関東節の祖」と呼ばれるようになる。 当時は、釈台を前に着流し姿で裾をはしょる姿で、説経節に伝わる「小栗判官」や「刈萱」などの寺社縁起物、「鬼神のお松」「八百屋お七」などの巷間に残る語り物などが主に演じられ、「風呂帰りの手ぬぐいを肩にしたその日稼ぎの勤労者」が聴いているというのが普通の寄席風景だったという。また1889年(明治22年)における大阪・名護町の寄席では「まだ大道芸時代の猥雑な雰囲気を残す小屋の中で演じられている浮かれ節は「暁天星五郎、新門辰五郎、国定忠治」といった侠客物や白浪もので」あった。 また、吉川小繁(後の桃中軒雲右衛門)は、この時期ヒラキに出ていた。新聞紙上で自身が連載にて告白した所によれば、浪花亭浜勝(駒吉の弟子)の手下として三度ボリ(山場で3回集金に回ること)をしたという。
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