弩級戦艦以後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/02 00:50 UTC 版)
そして超弩級戦艦によって、30.5 cmという主砲口径の枠も外され、戦艦の攻撃力は主砲の大きさで決まる時代となった。 敵艦より大きな主砲を備え、敵弾に耐えられる厚い装甲を備えた戦艦が海戦では有利である。その結果、戦艦とそれに搭載される主砲は急速に巨大化し、また数量で他国に負けないために大量建造が行われた。コストパフォーマンスその他の理由によって、前代より排水量・主砲が小型化する場合もあった巡洋艦とは対照的に、戦艦はひたすら大型化の一途をたどった。日英独は戦艦と同じ巨砲を持つ巡洋戦艦も建造し、中には大和型の25年も前に世界初の18インチ砲搭載艦となった「フューリアス」などがある。第一次世界大戦のジェットランド海戦でイギリスとドイツが弩級戦艦・超弩級戦艦を含む艦隊で衝突し、砲撃戦の重要性が再認識されたことで各国の大艦巨砲主義は一層強まり、日本では、日露戦争後の1906年から1920年代までは戦艦が海軍力の主力として最重要視され、列強各国は巨砲を装備した新鋭戦艦の建造競争を展開。 「主力艦」たる戦艦部隊同士の砲撃戦によって海戦ひいては戦争そのものの勝敗が決まるとされ、巡洋艦や駆逐艦などの戦艦以外の艦艇は主力艦の「補助艦」とされた。戦艦を保有できない中小国の海軍でも、限定的な航続距離・速力の海防戦艦と呼ばれる艦を建造し、戦艦に近い能力を持とうとした例も多く見られた。この時期の戦艦は大戦後の核兵器と同様の戦略兵器であり、他国より強力な戦艦は国威を示すものだった。 戦艦の建造競争は1921年のワシントン軍縮会議におけるワシントン海軍軍縮条約締結によりいったん中断(海軍休日)したが、1937年にワシントン条約が失効すると、建艦競争が再開された。しかし、主砲を巨大にする大艦巨砲主義は衰退し、速力と防御力のバランスが重視され、主砲口径も従来か従来以下のサイズにとどまった。 また航空機と異なり、当時の技術力では地平線という物理的制約により、戦艦は単独で数十kmを超える直接観測・攻撃手段を持ちえなかった。 (例) 地球の半径をR(=6.37 ×106m)、観測地点の水面からの高さをh(m)とした時、そこから観測できる距離x(m)は三平方の定理からx2 + R2 = (R+h)2 で求められる。ここでh=50m とした時、h2 はR2 より極めて小さいので、x = √2Rh+h2 ≒ √2Rh x ≒ √2Rh = √2×6.37×106×50 = √637×103 ≒ 25.2×103(m) このため、かつて想定されていたような戦艦同士の砲撃戦はほとんど発生せず、戦艦の役割はもっぱら対地砲撃、機動部隊や輸送船団の護衛、あるいは通商破壊などとなった。 ワシントン条約期間中に建造されたフランス戦艦ダンケルク級(1937年竣工)以降、第二次世界大戦終結までの9年間に建造された戦艦は27隻だった。 そして、大戦中にアメリカのアイオワ級戦艦が4隻就役し、戦後に完成したイギリスの「ヴァンガード」とフランスの「ジャン・バール」を最後に、新たな戦艦は建造されていない。
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