建設法成立と着工
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/15 02:30 UTC 版)
「東海北陸自動車道」の記事における「建設法成立と着工」の解説
1963年(昭和38年)7月、会長を松野幸泰岐阜県知事、メンバーを中部地域6県1市とする「中部横断高速自動車道路の建設促進同盟会」が設立されると、岐阜県選出で建設相も務めた野田卯一の支援を受け、岐阜県企画課の担当者が同盟会事務局として手作りの説明資料を片手に議員会館を奔走した。自民党政調審議会では同盟会の幹部が見守る中、東海・北陸間自動車道よりも東北道・中国道など日本列島の骨格をなす道路(いわゆる縦貫5道)の優先整備を目指す建設省の尾之内由紀夫道路局長に対し、三木武夫政調会長が叱咤するシーンもあったという。中部圏全域を一体として内陸高速輸送網整備の進言する国連のワインズマン調査団の中間報告もあり、1964年(昭和39年)6月に自民・社会・民社3党の19議員により東海北陸自動車道建設法案が議員立法で通常国会に提出され、同月中に可決・成立し翌7月1日に公布された。この時のルートは「愛知県一宮市 - 岐阜県関市 - 同県大野郡荘川村(現・高山市)付近 - 富山県砺波市」と定めており、総延長約170 km、事業費約2,000億円を見込んでいた。なお、この法案で初めて“東海北陸自動車道”という名称が用いられている。 建設法が成立したものの、沿線人口の少なさや山岳道路ゆえ建設コストが膨大になると見込まれた事から基本計画・整備計画の決定や事業化は先送りされ、最初の基本計画が告示されたのは法案成立から6年後の1970年(昭和45年)である。富山県選出で1969年(昭和44年)に初当選した元衆議院議員の綿貫民輔によれば、建設省に道路整備の陳情に行った際には「既に国道が2つもあるのに高速道路が要るのか」と当時の事務次官からは相手にしてもらえなかったという。 結局、根本龍太郎建設相の方針により、人口が多く一定の利用者数が見込まれる起点部と終点部から建設が進められる事となり、1970年と翌1971年(昭和46年)に南北両端部の基本計画が決定し、1972年(昭和47年)には一宮JCT - 美濃IC間(約33 km)が高速自動車国道法第5条に基づく審議会および整備計画決定を経て、建設相から日本道路公団に対して施工命令(現在の建設許可に相当)が発せられた。
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