幽冥論
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/17 01:11 UTC 版)
篤胤は、学問をするにはまず自らの死後の魂の行方を最優先で知らなければならないと断言した。そうして心の安定を得て、初めて学問に向き合えるとした。 本居宣長は、古典に照らして、人の魂はその死後、黄泉に行くと考えたともされる。黄泉の国は良くない国であり、そのことは逃れのないことで、だから死ぬことほど悲しいことはないと述べた。悲しいものは悲しいのであり、その現実をそのまま受け入れるべきだと説いた。宣長の門人で篤胤に大きな影響を与えた服部中庸も同様に死者の魂は黄泉国に行くとした。ただし、中庸は黄泉国は空に浮かぶ月のことであり、その世界は須佐之男命(月読命と同神だという)が治めていると考えた。 一方、篤胤は、他の学者のように他界を現世と切り離して考えたりはしなかった。黄泉の国の存在は認めたが、人は死後、黄泉の国へいく霊と、神になる霊とに分かれ、よい志をもっていた人の霊は神となって、神々の国である幽冥界へ行くのだとしたのである。篤胤は、現実の習俗などから類推して、死者の魂が異界へおもむくのは間違いないが、その異界は現世のあらゆる場所に遍在しているとし、神々が神社に鎮座しているように、死者の魂は墓上に留まるものだとした。現世からはその幽界をみることはできないが、死者の魂はこの世から離れても、人々の身近なところにある幽界にいて、現世のことをみており、祭祀を通じて生者と交流し、永遠に近親者・縁者を見守って行くのだとした。これは近代以降、民俗学が明らかにした日本の伝統的な他界観に非常に近いといえる。その意味で、平田国学は民俗学の成立に強い影響をあたえたということができる。また、現世は仮の世であり、死後の世界こそ本当の世界であるとした。これはキリスト教の影響である。篤胤は、キリスト教の教典も、『古事記』や仏典などと同じように古の教えを伝える古伝のひとつとして見ていたのである。 篤胤によれば、幽界は大国主命が司る世界であり、大国主命がみずから退隠した勇気によって死後の安心は保証されているのだとした。大国主命は死者の魂を審判し、その現世での功罪に応じて褒賞懲罰を課すとしているが、死者が受けるその懲罰について、篤胤は詳細を述べていない。これは、篤胤の関心があくまで、この世における人生の不合理性の解決・救済にあり、為政者が望むような倫理的な規範の遵守を説くものではなかったことを示している。この大国主命の幽冥界主宰神説は、篤胤以降復古神道の基本的な教義となった。近代以降の神道および政教関係を大きく方向付けることとなった1881年(明治14年)の祭神論争で出雲派が敗北したことにより公式には否定されるが、現在も多くの神道系宗教で採用されている。 平田国学では、幽冥界全体の主宰神は大国主命であるとしたが、各地のことはその土地の国魂神、一宮の神や産土神・氏神が司るとした。この発想は六人部是香に受け継がれ、発展させられている。
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