岡崎市長へ
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2000年(平成12年)6月の第42回衆議院議員総選挙において、岡崎市長の中根鎭夫は連日、杉浦正健の個人演説会に出席し応援演説を行った。同市では3か月後の9月10日に市長選を控えており、このため関係者の間では「中根の6選出馬間違いなし」と見られていた。6月25日、杉浦は順当に当選を果たし、6月28日、中根は正式に立候補の意向を明らかにした。 「5期でやめると言ったはずではないか」と反発を感じた柴田と青山秋男県議は中根に直接面談した。「どなたか市長さんの推薦される方を出して下さい。私達は応援しますから」と説得にかかると、中根は「各種団体から多くの出馬要請を受けている以上、今さらやめるわけにはいかない」とはねつけた。7月19日には連合愛知三河中地域協議会と政策協定を結び推薦を受けたことを発表し、勢いに拍車をかける。 戦中から終戦直後まで岡崎市長を務めた菅野経三郎。そこから続く竹内京治。太田光二。内田喜久。中根鎭夫。彼ら5人の市長はいずれも保守系県議会議員の出身者であった。そのような政治土壌の中で、柴田も青山も自らの出馬を当然意識せずにはいられなかった。もう一人の自民党県議の内田康宏は中根と長く敵対関係にあったものの、1996年(平成8年)から中根陣営の選対本部長に引き入れられており、転身の芽を摘まれていた。 青山秋男は1975年(昭和50年)の岡崎市議会議員選挙で初当選。政治キャリアの点で柴田より一日の長があったが、この場合何といっても物を言ったのは県議会議員の期数であった。13年前の選挙で柴田が現職を僅差で打ち破ったことが、二人の明暗を分けた。さらに、中根の多選反対の急先鋒に立つ岡崎商工会議所会頭の大川博美と大川の妻がともに柴田の岩津中学時代の恩師であったことが、柴田の出馬を確たるものにした。岡崎商工会議所の会頭、副会頭、文化人らによって作られた候補者擁立のための団体「新世紀の岡崎市政をつくる会」は大川に候補者選びを一任。7月26日に開かれた2回目の会合の冒頭で、大川は、出馬への意欲を見せていた柴田と自民党市議の河澄亨の二人のうちから柴田を選び推薦を決定した。そして杉浦正健と青山も柴田の全面支援を表明した。8月9日、元高校教諭の川島健が市民団体「市民に開かれたあたたかい岡崎市政を、みんなでつくる会(略称:あったか岡崎市政の会)」の推薦を受けて立候補する意向を表明。8月19日、自民党岡崎市支部は中根、柴田、河澄のいずれも推薦しないことを決めた。 保守3分裂という異例の事態になった市長選は9月10日に執行され、6歳未満の子供の医療費無料化、出産費用の20万円補助、市民の声を聴く「教えてくれません課」の新設、市長給与の3割カットなどを選挙公約に掲げた柴田が初当選した。この年から市長選は市議選と同日選挙となり、投票率は前回の32.11%から67.22%にはね上がった。 ※当日有権者数:253,322人 最終投票率:67.22%(前回比:+35.11pts) 候補者名年齢所属党派新旧別得票数得票率推薦・支持柴田紘一 59 無所属 新 75,826票 45.51% 中根鎭夫 75 無所属 現 57,047票 34.24% (推薦)民主党・公明党・自由党・社民党・連合愛知 河澄亨 57 無所属 新 20,265票 12.16% 川島健 64 無所属 新 13,479票 8.09% (推薦)日本共産党 2006年(平成18年)、東海市長会長、全国市長会副会長に就任。 2008年(平成20年)8月21日、「あったか岡崎市政の会」が擁立した元農水省東海農政局職員が、共産党の推薦を得て市長選に立候補する意向を表明。10月5日に行われた市長選で同候補を破り3選。 2012年(平成24年)6月1日、任期満了に伴う市長選への不出馬を表明。同年10月4日、任期満了により退任。10月21日、市長選執行。後継として擁立した日本一愛知の会の園山康男県議は落選した。 2014年(平成26年)6月、岡崎市名誉市民に推挙される。2015年(平成27年)4月29日、旭日中綬章を受章。
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