家族及び親族
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/27 19:22 UTC 版)
父親の宮武吉太郎は代々の庄屋の仕事のほかに酒造・砂糖業を営んでいた。兄の宮武南海(1861年生)は出版社「進歩館」や私塾「東京学館」などを経営したほか、東京市会議員、日動火災海上保険の取締役なども務めた。外骨が収監中には『頓智協会雑誌』の後継誌として『頓智会雑誌』を創刊した。 外骨自身は結婚しているが、若くして妻子に先立たれている。明治25年(1892年)に緒方八節(おがた やよ)と連れ添い、外骨が27歳の時に八節との間に、一男天民(てんみん)をもうけたが、わずか1歳で天民は夭折。大正4年(1915年)、バセドー氏病を患った妻・八節とも48歳の時に死別している。八節は旧肥後高瀬藩主・細川利愛の子・緒方倫親の娘だが、明治維新後、貧困のため妾奉公などを経て外骨の下女となり、そののち妻となった。八節の父親の倫親は幼児期に細川家から緒方家に養子に出された際に細川家から生涯年金が支払われる約束を得ていたが、廃藩置県を機にその支給が途絶えていた。倫親の貧窮ぶりを見た外骨は、倫親の兄である細川家当主細川利永子爵にかけあったが拒否されたため、事の次第を告発する文書を作成したり、民事訴訟を起こすなどして細川家の非情を世に訴えた。同じ華族醜聞事件として世を賑わせた相馬家事件で一儲けした黒岩涙香の萬朝報が「細川家事件」として外骨に取材して連載する予定だったが、細川家からの依頼でこれを反故にしたため、外骨と黒岩は生涯反目したと言われる。 明治39年(1906年)に養女にした三千代は大正13年(1924年)に嫁ぎ先で流産の為に死去。その死を知らせて来た電報を外骨は生涯手元に置いていた。もともと『滑稽新聞』の顧問弁護士・日野国明の娘だった三千代は、八節が亡くなった年に実家の日野家に復籍、大正11年に上野高等女学校を卒業後、吉野作造を媒酌人に、吉野の教え子の東京帝国大学法学部出で住友総本店に勤務していた石川清と結婚、亡くなったときはまだ19歳だった。 大正11年(1922年)に吉原の元遊女だった小清水マチ(末知)と暮らし始め、のちに再婚したが、昭和3年(1928年)にマチは書生との密通を外骨に問い詰められて猫いらずで服毒自殺した。その一週間後、39歳の水野和子(まさこ)と再婚、昭和15年に和子が脳溢血で亡くなると稲田能子(よしこ)と再婚した。八節の前に同棲していた房子を入れると外骨は生涯に5人の女性を妻とした。 晩年の外骨と生活をともにし外骨の伝記や復刻本を多数刊行、近代史関係の著作もある吉野孝雄は甥(最後の妻・能子の妹の子)。 従兄弟の曾孫にフリーライターで宮武外骨を研究するグループ「ぐわいこつふあんくらぶ」会長の、砂古口早苗(さこぐち さなえ、昭和24年(1949年) - )がいる。
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