家庭:3人の子供の母親に
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/07 08:29 UTC 版)
「青木鶴子」の記事における「家庭:3人の子供の母親に」の解説
1927年6月、夫妻はニューヨークのハドソン川近くのマンションを購入した。雪洲は舞台の仕事の時にはブロードウェイ近くのアパートを借りて単身生活を送り、部分的な夫婦別居生活をしばらく続けた。その間に雪洲は自分の劇団を作って全米各地で公演をしていたが、鶴子が見つけてきた劇団の新人女優のルース・ノーブルと愛人関係になり、1929年1月には2人の間に雪夫と名付けられた男の子が生まれた。鶴子は雪洲とルースの関係を早い時期から知っていたが、子どもの存在は雪洲から告げられた時に初めて知った。手記によると、鶴子はその事実を知らされた時に愕然とし、数日も苦悶した末に離婚を決意し、雪洲に「どうぞ雪夫のお母さんを、愛してあげてください」と言うと、「雪夫を彼女(ルース)にあずけておくことはできない」と言われたという。鶴子はこの一言を「わが子を安心して託すことができるのはおまえだけだという雪洲の、勝手ではあるが、自分への信頼を込めた願い」と受け止め、それで離婚という考えを改め、雪夫を引き取ることにした。 鶴子は手記で、「もうどんなことがあっても、わたしは雪夫をはなさない」と思い定め、「雪夫はなんという、かわいい子供だったでしょうか! そのかわいさは日とともに、わたしの心のなかで濃くなっていくばかりでした」と述べている。鶴子は幼い雪夫を「私のバンビ」と呼んで心から愛し、実の母子以上の絆が生まれ、後年に雪夫も「私にとってのおふくろは、鶴子ただ一人です」と述べている。鳥海は、鶴子が雪夫に深い愛情を注いだ理由として、それまで鶴子が雪洲との子を産めなかったことに対する負い目があったことに加えて、鶴子自身が肉親ではない人に育てられ、とくに養父の青木年雄の慈愛を終生忘れなかったため、肉親だけが決して家族ではないという身に染みた経験から、雪夫に血のつながりを超えた絆を育もうとしたのではないかと考えている。 雪洲の心はすぐにルースから離れたが、ルースは雪洲に金銭面を含めて責任を迫った。1931年にルースは養子取り戻し訴訟を起こし、約6か月にわたる裁判の末、雪夫の親権は雪洲夫妻にわたることで解決した。裁判の最中の同年10月には、母親のタカが亡くなったが、妹が打った電報は鶴子に届かず、鶴子は死も葬儀も知らずじまいだった。裁判のあと、鶴子と雪洲は話し合いの末、雪洲が同年末に仕事のため日本に帰国し、鶴子がアメリカで雪夫を育てることにした。しかし、裁判で解決したにもかかわらず、それからもルースに「雪夫を返せ」と執拗に迫られ、とてもアメリカで暮らしてはいけないと感じたため、1932年6月には雪夫を連れて日本に帰国した。こうして鶴子は33年間におよんだアメリカ暮らしにピリオドを打ち、祖国日本での新たな生活を始めた。 帰国後、鶴子は家族3人で渋谷区伊達町の大きな家で暮らし始めたが、雪洲は鶴子が帰国するまでの間に、新橋で芸者をしていた17歳のシズという女性と関係を持ち、家族3人で生活を始めてからも自宅と愛人宅を行き来する生活を続けていた。また、鶴子の手記によると、渋谷で生活していたある日、ルースが雪夫との面会を求めて来日し、鶴子は平穏な暮らしが乱されたくないと思い、はじめは面会を拒んだものの、その一方でルースに同情もしていて、わが子に会わせずに追い返すことはできず、結局雪夫と対面させてあげ、すぐにルースはアメリカへ戻ったという。 1936年末、雪洲は映画出演のためフランスへ渡った。鶴子は日本に残り、雪夫を育てながら夫の帰りを待った。ときどき雪洲から手紙が届いたものの、はじめは定期的にあった送金はやがて途絶えてしまい、持ちこたえられなくなった渋谷の邸宅も引き払って、牛込区の小さな借家に引っ越し、それまでの蓄えを切り崩しながら生活した。日本の生活をほとんど知らず、日本語も完璧とは言えないうえに、いざという時に頼れる友人も少なかったため、鶴子の不安は募る一方だった。そんな間には、ときどきパリにいる雪洲と映画の共演者の田中路子のスキャンダルのニュースが伝えられた。さらにある日、鶴子のもとにシズがやって来て、2人の幼い娘を引き取ってほしいと頼まれた。その2人の娘は、1933年生まれの令子(よしこ)と、1935年生まれの冨士子で、いずれも雪洲との間に生まれた子供だった。鶴子はこの申し出を受け入れ、3人の子供の母親となった。
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